そして始まる粛清の時へ

都内の街角、喫茶siestaには何時もの朝を告げる一日が始まろうとしていた。
日常をそつなくこなす。それ自体に特別の意味は存在しない。
だが、確実に一つの手がかりをつかむために片桐は一人コーヒーカップを拭き取りながら物思いに更ける。
日常に、自分の傍にいたはずの家族がいない。
まるでそういう感覚。
否、もはやこの怠惰な日常をそつなくこなすうちにそれは風化して始めからいなかったかのような感覚を身体に強制的に感受する。

『摩梨香を失ったこと、
それ自体は、もう自分の中で決着はついている。
いや、ついていたはずだった。

思えば、朝比奈がわしに南を、こんな寂れた喫茶店の仕事のお手伝いとして置かせてもらってくれたことは最初から彼女なりの計らいがあったからなのかもしれん。
11年前の傷を埋め合わせるように。』

その時、入り口の扉から微かなすきま風と共に来客が見えた。
そこには一人の壮年の男が片桐に話を伺うような姿勢で立っていた。

何か仕事帰りなのだろうか、その黒い背広を着た男は額に僅かな汗を浮かべ、端のテーブル席を乖離するように闊歩し、正面のカウンターに座った。
『ホットコーヒー。』

寡黙そうな男だ。
片桐は、そう思いながら静かにオーダーを受け取った。


誰かに、誰かの代わりを求めることは出来ない。
それは至極理解していたつもりだった。
だが、人間とはそれほど単純な思考の生物ではないらしい。
片桐は再び視線を床下に向けて耽りはじめた。

『あの青年がいなくなってから、
南は、この店から逃げるように姿を消した。
何か、自分に出来たことはなかったのだろうか。

まるで娘の初恋を見守る父親、あの時は笑い話ながらにもそういう雰囲気さえあった。
生き別れの姉を探す為に朝比奈と行動を共にしていた南。

幼なじみの唯ちゃん、クラスメイトの紗映さんも店に入り交じり
店内はそれそことなく華やかだった記憶を覚えている。

…やはり、自分は南を、摩梨香に重ねていた。
そうでなければ、ただのお手伝いの一人の娘がいなくなっただけだ。
バイトがやめて泣くような店長はこのご時世いまい。
‥不思議だ。
家族を失った男が、また家族を求めるなんて滑稽なことでしかないというのにな‥』

『‥失礼、何か考え事ですかな?』
カウンターの壮年の男が片桐に視線を合わせる。
『独り言のようだったが、何分室内の静寂で聞きいってしまった。申し訳ない。
失った家族を求める努力をしているのは、私も同じですよ。及ばずながらね。
だが、今はこのご時世私みたいな老骨には仕事がない。
やむなく、路地裏街道に身を置くような仕事でも口に糊する為には捌かなければならない。
せちがらいものです。

‥マスター、貴方は生粋の支配人にはみえない。
もっと芸術にあふれた香りがする。
失礼、以前は何か別の生業が?』

『私はピアノを‥教えていました。
ここも昔はその為の教室だったんでね。グランドピアノは残念ながらこの店の担保にしてしまいましたが。』
壮年の男は瞳を軽くうつむかせたまま頷いた。
『成程。
事情というものは、いかなる人間にもあるものだ。
私にもね。
今の依頼業はひたすらに精神的に負担のかかるものだが、
裏の街道を歩むものとして依頼主の事情など踏み入らないのが常識。
ただ、私が頼んだ部下への反応がまだ帰ってきていないところをみると
私がこれからまた仕事に出むかわなければならぬようです。


そして、私も独り身ですよ。訳ありながらのね。
珈琲。有難う。
釣りは結構です。この時、今宵そしてまたいつか仕事が終わりこの至高の一杯が機会あればもう一度味わえるように。』

壮年の男は万札を一枚、添えるようにコースターの上に乗せ、そそくさと店を後にしていった。

片桐は南の電話にもう一度着信を入れるべきか迷っていた。
だが、思考が雑然と乱される中、団体客が入り口にいるのを一瞥し、片桐は電話の受話器を置いた。


その日の夕方、朝比奈から電話があった。
『もしもし。』

『セント・ホスピタリアに来て頂戴。
一大事よ。
いや、一つじゃない。二つもね。』
『‥南がいたのか?』
『違う、

まぁ、それはおいおい話す。
早くしな。』
片桐は、店からタクシーを呼び直ぐ様セント・ホスピタリアへ向かった。