恵みの雨・3

『勝手に信じて、勝手に信じるのをやめて、
裏切られたと思い込んで、それで、信じなければよかったなんて‥



馬鹿みたい。
そんなに貴方の心は単純なの。

願わくば、そういうことを愛とか、‥間違っても言わないでいてほしいわ。』


不意にかじかむ両手。
止まらない身体の震え。
自分の身体が自分でなくなっていくような虚無に堕ちていくような感覚。
それは、痛烈に身体を追い詰めていく。
決して、止まることはなく‥

『うぁぁぁぁぁっ‥あ、ぐぐぐっ‥』
まるで獣のような何かを貪るような声が悲痛な音となって静寂を支配する。
『みな、美奈っ…!美奈っ!た、たすけて‥
苦しい‥苦しいよぉ‥
痛い…痛い痛いっ‥!!』

美奈が何も言わずに身体全体で抱擁するように紗映を抱き締める。
紗映の片瞳にはうっすらと血を滲ませた涙がこぼれている。その皮膚はおぞましく黄色に侵食して明らかに尋常な人間のものとは感じさせない。

『ううっ、ぐぅぅっ‥
痛い‥痛い‥痛いっっっ!』
美奈がそっと紗映の額に手を添える。
不意に力を解放することに抵抗は無かった。
‥光。
柔らかい光が包むその右手は、紗映の病魔に微かな抵抗となるべく新たなエネルギーの糧となって侵食していく。
『‥美奈‥
イズミが囁きかけてる‥まだ、来ちゃダメだって‥


私のところに、来ちゃダメだって声が‥
だから、あと少しだけ私を生かして‥
まだ、私は死ねないの‥
私を、助けて‥』

美奈は、にこやかに笑みを浮かべて紗映に問い掛けた。
『大丈夫‥
私がいるから、大丈夫…』

紗映は、それからしばしして泥のように眠り続けた。病室は一転し、美奈は、松室に事の異変を問い詰められた。
だが、あえてそれは語るほどのものではない。
自分の力が、友の痛みを安らげた、と言えばただそれだけの話ではあった。
それを医師に論理的に説明しようとなると、如何なる言葉を使わないといけないかは些か疑問ではあった。
『‥夢でもみているのかしら、私。』
片手に煙草をくわえた松室が怪訝な表情で美奈を見つめる。
『医者の不養生。
禁煙なさってはいかがですか。』
『そんな問題じゃないわ。』
『それじゃ、夢ということにしておいてください。
先生と私の秘密です。』
美奈は無表情を装ったかのような毅然とした態度であった。
『‥少しだけ質問させて。』
『はい。』


『貴方、普段から精神安定剤を服用しているの?』

『‥確かに先日受診した時はもらわなかったですけど。』
話が一方に噛み合わない。松室は質問を変えた。
『紗映の病魔、知っているの、貴方は‥?』

数秒の沈黙が流れる。
美奈は何か言いたげであった。
『‥先生。』

『ティンダロス症候群。』『やはり、その名前が出てきましたか。』

『なら、見せておくわ。美奈、貴方には。
真に恐るべきものを。』
松室は、美奈を引きつれて自分の担当領域のラボラトリーへと向かった。