誰も僕を知らない

再びこの街に幾度となる繰り替えされるであろう夜明けが近づこうとしていた。
眼前の南は埠頭のベンチに身体をより預けるようにして眠っている。
意識は目覚めているのだろうか?
不意に、どうでもいい思考が地場の胸を過る。
そして、地場はあの言葉を思い出した。
南が確信のように言った一言。
だが、あれから“生かされている”はずの記憶の中では
南と自分の記憶の中に交錯する相手は紛れもなく同一人物になる。

『そう、願わくば貴方と私の望むべき人が、同じであってほしい。

付け加えるなら、彼女の目的は私であってほしいわ。そうすれば、絶対に私のこの前に現われるんだから‥』

『どうして、どうしてそこまで危険を厭わずに接触しようとするんだ?


失敗したら、どうなるかわかっているのか?』
『今の今まで私を狙っていたくせに、随分と殊勝な言い方ね。

‥そう簡単に、私はやられたりしないわよ。』
するりと言う彼女の台詞は小さく、はかないものではあったがどことなく鋼のような強い意志を感じた。


『俺は、結局何がしたかったんだろう…
考える記憶のよりしろもない、ただ、今は全てが虚ろすぎて考えようとする気力すら起きない。』


その時、南がふらりとその身を起こし、地場へと視線をかざすように見つめる。
『季樹の…
彼に、あの薬を渡したのは貴方なの?』
“虚構の百合”
『もう私に今更隠し事なんて無意味だと悟りなさい。
あのユリの聖書の中にあるしおりの中の種にある未曾有の麻薬成分。

季樹は、不意にそれを手にとってしまった‥
だから‥』

地場は怯えたような表情で南に問い掛ける。
『違う‥俺じゃない。
信じてくれ…

知らなかったんだ‥
ただ、“アンネリーゼ”に一定量の聖書をばらまけば、その報酬として彼女の居場所を探す手立てを整えると教えてくれた。
これらの仕事は失敗は許されない。
偵察と護衛をかねて黄偉強が奴等の組織の側から使役された。もっとも奴も腹に一物かかえたまま、アンネリーゼに仕えていたらしいが‥

でも、その最中、彼女と俺は偶然にも出会ってしまったんだ。
雨の降る、初夏の街角で。全てを失った俺の前に。』

『わかってないのね。
それすらも、仕組まれたことなのよ。
彼女と作れた束の間の愛は、全て奴の掌の上。

…まだ気付かないの。
一色渓。
それが貴方の本当の名前よ。』