月と言ノ葉・1

あの日、確かに感じた記憶の鼓動。

彼は、最後に『あの子』と出会っていた。

何の目的で?
それは、今さら知る由もない。
だけれども、そこには確かに意味があり、彼女の意志がある。

ならば、私はその真意を問わなければならない。

彼の永遠の眠りが、いつまでも、いつまでも優しく、安らぎに満ちたものでありますように。


おやすみなさい。トシキ。


『………夢?』

もはやそれは夢と呼べる代物ではなかった。

南は、未里市の町外れの小さな教会を尋ねた。
そこにいるのは、初老の神父の留守を一人待つミチルという通り名のシスターがいた。

この場所においては、一年前に病死した神父の亡き妻の意志により、ここより数キロ離れた孤児院と提携管理して、親元を亡くした孤児を管轄する施設となっていた。


『すみません。急な形でお伺いしてしまいまして。』
ミチルは年齢的には南と同じぐらいの年齢と思われる、落ち着いた女性であった。

『いいえ。少しの間ではありましたが、子供たちと遊んでいただいて、ありがとうございました。あの子たちは、最寄りが無いので、普段神父様がいらっしゃるときは、私が外に連れていく時もあるのですが。』

渓は、教会の端に用意された仮眠室で一足早くベッドに入って睡眠を取っていた。

『…そういえば、子供たちの一人の子が、今日は、私のところに普段はこの辺にいないお姉さんがこの教会に来るかもしれないって言ってましたね。ただの偶然かもしれませんが。元々勘の鋭い子でして。』

南は、一瞬視線が止まった。
『…さっき、いた子がですか?』

『いえ、今日は孤児院に月に一回、担当の巡回医が来るので、そちらのほうにはいらっしゃらなかったと思いますが。』

『…そうですか。わかりました。』


南は、これからの事を深く考えることにした。

…渓の存在。
自分の目的。
姉の行方。
離れた知己たちの行方。

だが、いつしか結局は行方の定まらない風のように、今の自分は、移ろい行くだけの振り子のようになってしまっていた。

突き止めなければならない、聖書の存在。

散り去った魂の行方は、一体何処へ向かおうとするのか。


一人、思いにうつむく南を横目に、ミチルは教会の奥の聖堂へと席を外した。



『もし、あの時の私の無力さを、悔いることができたら、俊樹…、あなたは私を許してくれる?』

『心が……胸が、いたいの。私は何を考えているの?あなたを失って、無理に私は自分を深く追い詰めて、あなたの仇を撃つために、もう使いたくはなかった力を、解き放ってしまった………』


『教えて……俊樹……!なぜ、あなたは最後に美奈と何を話していたの…!?』

魂が最後に南に何かを伝えようとしていたのか?
否、そうではなかった。

俊樹の瞳の最後に焼き付いた瞳孔には、美奈の後ろ姿が朧気に映っていた。


『魔術士として…ひとりの、忌まわしいソーサレスとして…怒りが、私を支配しておさまらない………!』
『どうしたら、いいの…?』

降りしきる雨に紛れて流れる微かな、誰にも決して聞こえない小さな嗚咽。

あの場所に幾度となく足を運ぶも、すでに魂の残留思念は霧散して残っていなかった。

『君に映る世界…
私に映る世界…』


いつか、それが灰色からわずかに光あるものへと変わることを、願いたいと思う。

恵みの雨・5

いつか見た同じ景色は、時間と共に悲しい景色へと変貌する。

その温もりは永遠に叶わぬものに。
その離れた手は二度と彼女の元に辿り着く事はなく。
『‥おはよう。月島さん。』
聞き覚えのあるような懐かしい声で南は目覚めた。
どれくらい転寝していたのだろうか。
いや、起きたまま意識だけが暗い闇の底にくぐもっていたかのような意識の下にあったと言ったほうがいい。
『‥目覚めはどう?』
『…あんまり。』
一方の青年の表情はどこか哀しさと少しの申し訳なさげな表情に包まれていた。『毎日、ここで考え事をしてる。
病院と、この場所の行ったり来たりの繰り返し。
おぼろげながらにも、記憶を少しずつ取り戻して来てる。
…まだ、身体は痛むけどね。
ありがとう。
キミが助けてくれなかったら自分はどうなってたんだろうと思うと…』

『勘違いしないでね。』
当の南は、機械的な反応ですぐさま呟いた。
『癪なだけなの。
…これ以上誰かの掌で踊らされるのだけは。
結果的に、それが君を助けることにはなったのかもしれないけど。
…でも、それはあくまで結果。
私が望んだ行動じゃないから。
今でも、私は貴方を認めたわけじゃない。』

南のそれは渓の思惑には無い言葉の数々であった。
言わば拒絶。
渓は、訴えかけるような眼差しで南に語り掛ける。
『‥それでもいいんだ。
こんな、何も自分と言うものない自分に…

何度も、この何も無い世界から消えていなくなろうと思ったことか。
でも、不思議なんだ。
それらの迷い込んだ迷路‥抜け出せたのはわからないけど
今はもう、ふっきれてしまったのかな。
どうでも、よくなっちゃって‥
昔、両親にもよく言われたのさ、
“他人に迷惑をかけるぐらいなら、死んだほうがましだ”って。
でも、今はそうは思わない。

‥その言葉は、とても虚しいと、自分の心が訴えかけている。だから、生きてみたいと切に願う。

皮肉だよね。生きることも死ぬことも恐い。
僕は誰かの、何にもなれない。』

『‥それが良いか悪いかはこの際別にして。そういう人間は別段私はめずらしいとは思わないわ。』

『…月島さん、前に話してくれたよね。
自分は、戦っているんだって。
その言葉は、今の自分にはとても辛く厳しい言葉だったんだ。
…戦う。
思えば僕は、ずっと逃げていたのかもしれない。
彼女も、もしかしたらそんな自分の心の奥底に気付いていたのかもしれないと思うと‥
情けないよね。』
『もう。貴方は本当に地獄耳ね。
頭の回転だけは早いのかしら。そんなこと聞かなかったことにしてよ。
いまさらそんな言葉に他意はないわよ。』

少しの沈黙の後、南は古びたベンチからゆらりと立ち上がって海岸沿いに視線を移す。

確かにあの日の波の音は同じ日のように聞こえているように見える。
だが、決してそれは同じものではない。

『月島さん。
受験が終わったら、僕は何も縛られない、そんな生き方がしてみたい‥

そんな生き方って、自分にもできるかな?』
『…そうね。
まずはコーヒーのいれ方からちゃんと覚えることね。』

彼女は笑顔だった。悲しい程に優しい、薄い笑顔。
ふらりとベンチから立ち上がり、南は連なる水平線に向けてその瞳を閉じる。


『…私に、力を…!
お願い…
もう、一度だけ‥!』

律動する鼓動。
吹きゆく風、その全てが彼女のそばになびくように降り注ぐ。

南は力の依りしろとなる叡知の言霊を詠唱する。



私は貴方の心を融和する
私は貴方の心の痛みをこの胸に宿す
私は貴方の心のぬくもりに今触れる
願わくば、その心の深遠を解き放ち給え‥!


その海が果たして彼女の声を聞いたのかは知る由も無い。
だが、確かに一つの言霊が力となって亡き悲しき魂の移ろう道標の記憶となって彼女の心に共鳴する。

『季樹‥
教えて。私に…
貴方の瞳に焼き付いた最後の光景を私に‥
私に、貴方の無念を‥
その悲しい移ろえる遺志を全て、今私に…!』

しばしの沈黙は過ぎ、それから時間にして数十分、南は頃合いを見て渓と共にその海岸から立ち去った。

病院への帰路に差し掛かる途中、二人は数人の小学生ぐらいの子供たちを見かけた。

『‥あれは。
この付近にある教会に出入りしてる子達みたいなんだ。
最近、週にたまにこの細い帰路を帰ると子供たちが数人で遊んでるのをみかける。
いいなぁ。
自分もあんな時期があったのかと思うとさ。

…って、ちょっと、どこに‥?
月島さん!』

南は話半分を聞いたまま、そっと草むらの端にいた一人の少女のもとへと歩み寄った。
よく見ると、周りにはまばらの数人の子供たちに取り囲まれているが
その子は一番幼い年らしくおまけに顔は半べそをかいたかのように泣きっ面に赤く染まっていた。

南は、膝をそっとおろし少女の目線まで立って話し掛けてみた。

『どうしたの?』

泣きべそを見られたくないのかその女の子はかぶった白の帽子を深く目線の下までおろしていた。
『うぅ‥ぐすっ。』
『あらあら。もう。泣いちゃだめよ?

仲間はずれにされちゃったの?』

『私、運動が苦手で‥缶蹴りしていたんだけど、もう10回もオニのままなの‥
うぅ‥
やっぱり、男の子にはかなわないよ。』

さすがに10回というのは大袈裟というか、可哀相という気もしないでもない。
基本、子供達の遊びはマニュアルというものはなく子供自身がルールだといえる。
その意味では、律儀に遊んでいるとも言えなくもないのだが。
南は、すくっと立ち上がり、その女の子にそっと左手を差し出した。
『ずるいわねぇ。
ちょっとは手加減ってこともしてあげればいいのに。
じゃあ、ちょっと私も一緒にやらせてもらっていい?』
『えっ?』

少女は、一瞬、戸惑いながら驚いた表情を見せた。
『私も混ぜて。君のオニ。私が今変わってあげる。』

それから数分後、
その場にいた子供たちが呆気とした顔立ちで南の顔を見るはめになっていた。
『な、なんで?』
『缶、あそこにあるよね?‥』

当の、南に缶を譲り渡した女の子がまるでしてやったりという表情で数名の男の子をみつめていた。

『はい。これで全員ね。』渓までが唖然とした表情で南を凝視していた。
『貴方もやる?』
『い、いや‥いいよ。』

『お姉ちゃん、すごい‥
この辺は入り組んだ場所が多いから、普通の人にはまず見つからない隠れる場所がたくさんあるのに‥』

まるで全員が南に秘密のネタというべき手の内を読まれていたというような話であった。
『じゃあ、今度はかくれんぼにする?』
『無理だよ〜』

一斉に男子一同のため息に似た声が響いた。
『せっかくだから、教会に一度足を運んでおこうかしら。

‥子供の時以来だから。
この子たちをみていたら、なんだかまた、思いだしてきた‥

嬉しい記憶も、悲しい記憶も。』
『お姉ちゃんなら、大歓迎だよ!
今日は教会でお料理パーティーやってる。私のお友達がいるんだよ〜』

話に追従するように、南と渓は夕方の残りの時間を使って
街外れの教会へと足を運ぶことにした。

恵みの雨・4

美奈は、松室の言葉に従うままにセント・ホスピタリア内のラボラトリーに向かう。

『…これで、予感は確信に変わる。
そして、この街に巣食う病魔の正体もつきとめられる。』

松室は、研究室につくや否や、美奈にとある話を語りはじめた。
『一人でお喋りとは悪趣味だね。麻衣。』
『おば様‥』

研究室の奥を見渡すと、先客がいた。
そこには気配すらまったく消したかのような面持ちで晋子が松室の瞳を凝視しながら立っていた。
『一人の人間の生命がかかっているんだよ。
事は一刻を争う。麻衣。知っていることがあるなら私が全て聞いてやるよ。』

『ティンダロス‥』

一同が静寂に包まれる。
特に晋子の表情はまるで金縛りにあったように歪んだ。
『な‥、ははっ。
冗談だと…いってほしいね。
私は占星術が十八番でね。フィクションに作り描いた神話のもののけの話は得意ではないんだがね。』
晋子が呟いた。
そして、美奈もまた、真摯な表情で事のいきさつを伺う。
『ティンダロスとは、とある神話の都市伝説の一角を担う異業の生物。

次元の狭間に巣食う、人ならぬ存在。

…そして、ティンダロス症候群とは
人間の運命から逃れられぬ病魔、癌が生命活動を炸裂させるように進行していく異常促進進行形態。

常人ならぬ精神力を持つものが最後に訪れる、地獄の入口。

何人からもその病魔から逃れる事はかなわず、ただ指を加えて死を待ち望むしかない‥

残酷という言葉さえ、生温い。
病魔を超越した病魔。

ティンダロス。』


松室が、とある一枚の資料を卓上に置いた。

『…………っ!!』
一同が石像のように静止する。
まるで魂を抜き取られたかのような表情であった。
『これは…
人と呼べるのかい。』
写真の中の“人”であったかのような人型の肉塊は否が応でも、その異形の病魔の存在を三人の脳裏に焼き付けた。
『もう、‥もうしまってください。直視できない…』
美奈が頭をふらふらとさせて、視界をぼやつかせて呟く。
『このクランケは一体誰なんだい…?』
晋子が松室に問い詰めた。
『トップシークレットよ。虚栄の塔の‥』

『な……』



松室は再び調べごとがあるからと言うことで、晋子と美奈の元から去って行った。

廊下で美奈が一人外の窓を見つめ、想いに耽る。
『紗映は、あとどれぐらいもつんですか…』

『一医者として答えるなら、今、生きているのが奇跡と言ってもいいわ。
正直、いつどこで心臓が止まってもおかしくはない‥私には指をくわえてみていることしかできない。
‥ごめんなさい。』

美奈は、窓にそっと両手を添えるように触れる。
この底無しの悲しい彼女の運命を、ただ寄り添うこともできずに呆然とするしかないのであろうか。
『叔母さま。‥病室に戻ります。』

『美奈‥っ!』
『私がいれば、ずっと傍にいれば彼女を死なせることはないんです。
絶対に。

だから、私は私の役目をただ‥』

何が彼女を動かすのだろうか。
まるで何かが乗り移ったかのように強い意志の力が彼女を突き動かしていた。
人の運命をねじ曲げてまでも、何かに向かい戦おうとする意志の力。想いの力。
晋子は、ただその場に呆然とうつむいたままであった。

『ん、?おーい!』
突然、反対側の廊下から聞き覚えのある壮年の男の声が響いた。
そこには息を切らして廊下を駆けてきた片桐の姿があった。
『なんだ、あんたか‥』

『何だとは何だ。
急に呼び寄せて、全く礼儀も何もあったもんじゃない。
まぁ、そんなことは些事にすぎん。
それよりも、大事な話だ。南が‥
南が、この病院にさっきまでいたという事をな。
若い学生らしい男と一緒にいた。飄々とした、どこか内気で内向的な感じの青年といったところか。
‥もっとも、それらは全て入り口のナースの一人から聞いた話だ。
真意の程は定かではないが。
何はともあれ、南はこの街の近くになりをひそめていることは間違いない。
今こそ、我々が一致団結して、一緒に協力しないといけない時なんだ‥』
美奈は、軽く俯きながら片桐に問い掛けた。
『‥彼女なりの考えがあるのでしょうか。
学園祭の、青華祭の時はあれほど私と打ち解けてくれた彼女が
今になって、たった一人で行動することには
何らかの意味があるんじゃ‥』

続け様に晋子が語る。

『付け加えるなら、あいつの“サトリの法”は
周囲の人間の心の機微を寸分無く看破する。
ここにいて、こうして私たちが会話していることさえも
あの子の力が完璧だった場合、感知されていることも考えられる。
普通であって、普通でないんだよ。“能力者”という存在はね。』

二、三、会話の掴みをたどりつつ
美奈が、二人に何かを求めかけるような表情で問い掛けた。
『コンタクトを、とるだけなら
私に任せてもらえませんか?
きっと、一日あれば彼女の足跡は掴めると思います。』
『しかし、それだと誰が紗映ちゃんを‥』

『一日だけ、一緒につれていかせてください。』
一同は戸惑いの表情を隠せない。
ただ、このまま静観していても紗映の容態が好転することはありえない。
そう考えるならば、あるいは‥
『叔母さま。
南が、今しようとしている事を幾分かでも察知できますか?』
『水晶でかい?
…不可能というわけじゃないが。』
『ある程度、目星はついていたほうがいいです。
お願いします。』

一人、手持ち無沙汰のまま片桐は病院内への入り口へと戻った。
すると、先程それらしき噂話を話していた看護士の女性が、患者や他の医師を交えた座談をしていた。
片桐はその話に壁際からそっと耳を立てて伺った。


『さっきの女の子‥まだ記憶から焼き付いて離れない‥

あの瞳、あの一瞬の目付き、目が会った瞬間あそこから一秒でも早く逃げだしたいと思ったんだもの。』

『あの子、どこかで見たことあるんだよな‥
この街にちょっと前からいた女の子だったような気がする。しかし、それでもあんな表情をする子じゃなかった。
怒りでも、憎しみでもない、何か虚ろな、何かに取りつかれたかのような瞳‥』
『この病棟もおかしな患者だらけよね‥』

『そういえば、さっきも何か独り言をぶつぶついってるようなサラリーマンがいたわよね。
大方、会社をリストラされてお先真っ暗といったとこじゃないかしら。くわばら、くわばら。

この街では、あの人に逆らったら生きていけないんだから‥』



一方、紗映の病室に戻った美奈は外へと出向く準備をしていた。
時刻はもう夜の八時を回っており、寸分、面会時間の終刻が迫っていた。
『紗映‥
目が覚めた?』
『うん、私、夢をみてた‥。また、イズミの夢を。
イズミが手を振ってるの。

私だけに。

何なんだろう‥
私に、何かを伝えようとして夢は終わってしまうの。』

恵みの雨・3

『勝手に信じて、勝手に信じるのをやめて、
裏切られたと思い込んで、それで、信じなければよかったなんて‥



馬鹿みたい。
そんなに貴方の心は単純なの。

願わくば、そういうことを愛とか、‥間違っても言わないでいてほしいわ。』


不意にかじかむ両手。
止まらない身体の震え。
自分の身体が自分でなくなっていくような虚無に堕ちていくような感覚。
それは、痛烈に身体を追い詰めていく。
決して、止まることはなく‥

『うぁぁぁぁぁっ‥あ、ぐぐぐっ‥』
まるで獣のような何かを貪るような声が悲痛な音となって静寂を支配する。
『みな、美奈っ…!美奈っ!た、たすけて‥
苦しい‥苦しいよぉ‥
痛い…痛い痛いっ‥!!』

美奈が何も言わずに身体全体で抱擁するように紗映を抱き締める。
紗映の片瞳にはうっすらと血を滲ませた涙がこぼれている。その皮膚はおぞましく黄色に侵食して明らかに尋常な人間のものとは感じさせない。

『ううっ、ぐぅぅっ‥
痛い‥痛い‥痛いっっっ!』
美奈がそっと紗映の額に手を添える。
不意に力を解放することに抵抗は無かった。
‥光。
柔らかい光が包むその右手は、紗映の病魔に微かな抵抗となるべく新たなエネルギーの糧となって侵食していく。
『‥美奈‥
イズミが囁きかけてる‥まだ、来ちゃダメだって‥


私のところに、来ちゃダメだって声が‥
だから、あと少しだけ私を生かして‥
まだ、私は死ねないの‥
私を、助けて‥』

美奈は、にこやかに笑みを浮かべて紗映に問い掛けた。
『大丈夫‥
私がいるから、大丈夫…』

紗映は、それからしばしして泥のように眠り続けた。病室は一転し、美奈は、松室に事の異変を問い詰められた。
だが、あえてそれは語るほどのものではない。
自分の力が、友の痛みを安らげた、と言えばただそれだけの話ではあった。
それを医師に論理的に説明しようとなると、如何なる言葉を使わないといけないかは些か疑問ではあった。
『‥夢でもみているのかしら、私。』
片手に煙草をくわえた松室が怪訝な表情で美奈を見つめる。
『医者の不養生。
禁煙なさってはいかがですか。』
『そんな問題じゃないわ。』
『それじゃ、夢ということにしておいてください。
先生と私の秘密です。』
美奈は無表情を装ったかのような毅然とした態度であった。
『‥少しだけ質問させて。』
『はい。』


『貴方、普段から精神安定剤を服用しているの?』

『‥確かに先日受診した時はもらわなかったですけど。』
話が一方に噛み合わない。松室は質問を変えた。
『紗映の病魔、知っているの、貴方は‥?』

数秒の沈黙が流れる。
美奈は何か言いたげであった。
『‥先生。』

『ティンダロス症候群。』『やはり、その名前が出てきましたか。』

『なら、見せておくわ。美奈、貴方には。
真に恐るべきものを。』
松室は、美奈を引きつれて自分の担当領域のラボラトリーへと向かった。

恵みの雨・2

『ねぇ、子供の頃を思い出して…
何かを見つけて、何かを失い、
そして、少女たちはやがてどこへ行き、どこへ消えていくのでしょう?

そのカーテンの先には違う世界があると思っていたわ。
薄汚れた幻を焼き付けて
それでもその先には何も存在しないことに
何故気付かないのでしょう?

やがて、冬が終われば‥
全ては元通りになるのよ。
この寒いくぐもりから目が覚めて
ようやく、無垢なる自由を手に入れられる。

願わくば…
神様、あと少しだけ、瞳を瞑っていて‥』


『おはよう。紗映お姉ちゃん。』
一人の少女が待ち望んだ瞳で紗映に話し掛ける。

『沙羅。おはよう。
そっちは調子はどうなの?来週は手術なんでしょう?
無理はだめよ。
何ならまだ寝ててもいいんだから。』

『…へいきだよ。
治ったら、また紗映お姉ちゃんにピアノを教えてもらうんだ‥』

こんな会話を聞くと、半年前の教会に居候していた時期をふと思い出す。
彼女、野木坂沙羅は未里市に佇む名も無き教会に半年前やってきた。
孤児院の代用品として。
神父、東城が両親を亡くし記憶を失った身寄りの無い沙羅を一人娘として引き取った。
彼女は孤児院にいた記憶では、面会に毎日来ていた姉が、ある日ぱったりとこなくなったショックをきっかけにまったく口を割らない失語障害に似た症状を引き起こした。

彼女はまだ14才の誕生日を迎えたばかりであった。
だが、
とある一つのささやかな出来事が彼女に変化をもたらした。
紗映の旋律である。
彼女が奏でる柔らかい、優しい旋律は
やがて、深い溝に墜ちていた彼女の心に小さなやすらぎを与えた。

『紗映お姉ちゃん、考えごとをしているの?』
ふと、一人でいると常に紗映は数ヵ月前の記憶をその脳裏に呼び戻してしまう。結局何が一番正しい選択肢なのはつかめないまま
無碍に時間だけが無情にすぎていく。
『教会で、
出来たらもう一度演奏したいね。
出来るなら聖歌を。
沙羅、あなたのために。

…私からのおまじない。
おまけつきね。』

『やったぁ。約束ね!』
普段は感情を吐露しない沙羅も、徐々に紗映になつくようになっていた。

一度、紗映が病棟にある器楽部屋でピアノを演奏したことがある。
それも入院した直後の話である。
その時の数十分の静かな演奏は、沙羅を始め病に苦しみながらも闘い続ける子供たちのささやかな安らぎとなった。

『鈴木さん、定期検診の時間ですので処置室にまでお越しください。』
『はい。
沙羅、また後でね。』
沙羅は軽く頷いて紗映に手を振った。


程なくして、沙羅も主治医の松室に呼ばれた為病室にまで戻ることになった。

『ねぇねぇ、沙羅ちゃん?』

その時、沙羅を呼び止める一人の女の子の姿があった。
特別顔見知りという訳ではないが、前の紗映の演奏を見にきていたり、休憩室の談話の際にたまに一緒に沙羅と同じ場所にいたりしている一人だった。
『なぁに?』
よくよく見ると、彼女は両目の下に不思議なくまをつくっていたのが見えた。
『ねぇ、何かここ最近、私の病室のまわりがおかしいんだ。
甲高い、痛そうな声が響くの。廊下で。
私、夢とか、寝呆けてたのかなって思ったら
全然違ったの、寝付けなくて、うるさくて‥
沙羅ちゃん、恐いよ‥』


不意にその子は沙羅にしがみついてきた。
『声…
空耳じゃ、ないのかな?』
彼女に懇願された結果、沙羅は今宵に二人でその事実を確かめることにした。


一方、片桐もまたセント・ホスピタリアに到着していた。
先程、病院の入り口にて看護士達の立ち話しを聞いてからというもの、気が落ち着かない。

それもそのはずであった。昨日の夜、病院に搬送された凄惨な遺体の話もさることながら、郊外の火災事故に無数の消防車、救急車が都心部の道路を飛びかった話。
だが、それら雑多なものよりも何より耳に残ったのは
一人の黒髪の少女の特異なる姿であったという。

『あの子、どこかで見たことあるのよ。

…思い出したわ。堀財閥の一人息子と一緒にいたのを思い出したの。』
『馬鹿ね。何もしらないの。昔話を。
堀社長がその昔築き上げた愛人達のなれのはてなのよ。
あの人は人格の優劣説を唱えていたじゃない、講演会で。
だから、一番本妻の子に愛情を注いでいたはずが
その子は出来がお世辞にもよくなかったの、だから、その昔11年前に事故で父親を失った施設孤児院にいた女の子を養女にしたのよ。

でも、これも長くつづかなかったと聞いたわ。
結局後釜を失った堀社長は新たな後継者育成よりも違う視点に基づいた計画をたてはじめたって話よ。

何か、素性の知れない輩とよく接触を試みてるといってるもの。

まぁ可愛そうなのは母親よね。堀社長の正妻。
家系の怨恨から土壌が崩壊するのを危惧して一生遊べるぐらいのお金を託して地方の名もないぐらいの街に流したらしいですって。

ほんとに愛情の欠けらもないのよ。自分が信ずる人間以外はね。』
『あら、でもあえて突っ込む形なら最後の一行は強ち間違ってはないんじゃないですか?』



『後継ぎを失ったあの社長はどうする気なのかしら?』
『何でも、諦めてはいないらしいのよ。』
『諦めていない?って‥』

『自分の義理の娘を、手段を選ばずに
我がものにしようと狙っているって噂よ。
それが何の目的は知らないけどね、いえ、知らないほうがいいわね。そんなの。』


その日の夜、病院裏の勝手口に幾人かの男女が会話をしていた。
片桐は入り口の前までゆっくりとした歩幅で歩く。

やがて、その入り口で見知った顔を見つけた。
『北織君…
久しぶりだな。
堀君の葬儀から間もないがあれから、どうだった?』
『いえ、ある意味平穏を保ってはいます。
たった一人の生徒を、のぞいては。』

片桐がその言葉に反応して美香に歩み寄り、思わず美香の肩を揺さぶりながら問い詰める。
『南か…南なのか?北織君。行方を知ってるのか!』
『ちょっと、叔父さま‥』
余りの行きすぎた問い詰める行為、片桐は明らかに冷静さを欠いていた。
『いや、すまない…
柄でもなく取り乱したりして。
最近、南のことを考えると頭が冷静でいられなくなる時がある。
こんな気持ちに取りつかれたのは生涯で幾度もない。
…困ったもんだ。差し詰め失った娘の身代わりを強く求めるような行為だ。』

『さっき、紗映の容態を少しうかがってきました。』
片桐にそうつぶやきかける美香の表情はいつにも増して重い。
『…あの婆さんがいってた一件はやはりそれか。で、彼女の容態はどうなんだ?』

『医師は言葉を濁しています。
おそらく、容態は私たちが思っている以上に悪いのでしょう。
最悪の事態を考えることも‥
叔父さま…
私はもう、教師でいることに疲れてしまいそうです。イズミを失い、由香里を失い、月島さんの安否もわからずじまい。
その上に紗映も…

これが、組織の復讐なのかと邪推してしまいそう‥
私の大事なものを一つ一つ、崩されていく‥…』
美香は、その場をうつむき薄らと身体を震わせた。

『まだ、諦めるのは早い。なんとしても、今我々ができることは
身近にいる大切な人間をこの手で守ることだ。
北織君。君は幾度となく紗映を助けてきた場面があるじゃないか。

そのおかげで‥紗映にも助けられただろう?

だから、今は我々ができる小さなことをやるんだ。
俺はいつでも君たちのそばにいる。
こんな爺いだがな。』

『‥ありがとうございます。
いつも、私は叔父さまに励まされてばかりで…
本当なら私がしっかりしないといけないのに‥』
美香は泣き顔を必死に堪えて平静を装う様を繕った。

その時、ナースステーション側からとてつもない呼び出しのベルが鳴った。

『ぐあぁぁぁぁぁぁぁ!!』

否、それは呼び出しの音ではなく明らかに人間の叫び声であった。それも尋常でない何かにとりつかれたような声であった。
『なんだ、今のは…?』


『叔父さま、私がみてきます!ここにいてください。』
『あ、おい、北織君!』


その声はまるで断末魔のような異様な呻き声のように周囲に不快と苦痛を撒き散らしていた。
あわてて、同じ階の患者たちが何事かと目覚めて廊下をうろつく者までいた。
『紗映っ!紗映!!』

美香はノックもせずに紗映の病室に飛び込むように入った。
『先生?』

そこには、美奈に抱き抱えられるように眠っている紗映の姿があった。
しかし、容態は明らかに普通ではない。瞳は不意に律動し、まるで強烈な薬で強引に意識昏睡にしたかのような状態にもみえた。
『紗映は‥?』
『私が、“能力”で今抑えました。‥大丈夫です。』
『そんな‥
そこまで、ひどいの。彼女の容態は‥』
美奈は強い意志を込めた口調でつぶやく。
『このままだと、一週間‥もちません。
でも、大丈夫です。私がいれば、大丈夫。
絶対に死なせはしない‥
今、彼女の容態をみにきていた一人の女の子を席を外すために晋子叔母さまに付き添ってもらいました。

先生、あと、大事な話が‥』

恵みの雨・1

『不意に訪れる雨。
その雨は、誰の為に降るものなのか。

やがて冬が終われば、全ては安楽へと導かれる。

悲しいな。
神は、未だ終末を望んでいないということか。
暗黒と凶滅のディストラクション…

今宵こそは、等しく我が願いが叶うことを祈る。』



それは、誰かの夢だった。遠い景色。傍にいる友。
全ては懐かしかった光景の断片。
だが、あくまで過去の破片にすぎない記憶の一部は瞳を閉じたらすぐに消滅するたわいのないものであった。
『紗映、おはよう。
昨日はよく眠れた?』
ふと前方に視線を移すと、紗映は見慣れた制服姿の存在を目のあたりにした。
この頃の美奈はいつにも増して献身的だった。
自分に対して、それは救えなかった友達への罪滅ぼしともいえなくもない。

『えぇ。
昨日は本当に眠れたわ。
嘘みたい。今日は天気も晴れないからまた昼間からは下にある広場で、子供たちと一緒に…』
『そうね。
子供用の小さな楽器、あれを紗映が見てあげられるようになって
すっかりここの人気者になっちゃったね。』
『ずっと一人だったから‥教わってきたことも、色々なことも。

正直、まだ戸惑いはあるけどね。』

美奈は、担任の北織から朝電話を受けた。
何でも今朝は担当する教員が風邪かそれに因んだ体調不良が原因で
午前中はほぼ授業は形骸化しているらしい。
早ければ昼からにでもセント・ホスピタリアに向かえるからよろしくとのこと。
『着替えたら、じゃあ1Fに行きましょう。』

『えぇ。』
その前にちょっと髪を整えてくると言って紗映は病室を後にした。
『‥?あれは‥?』
美奈は、紗映の病室の引き出しにある薬に目が止まった。

『痛み止め?
しかもこれは、抗癌剤‥常用の数倍の‥
しかも、7日分だというのに、1錠も手をつけていないなんて‥
紗映の病状は、ほんとは‥』


美奈は、担当医の松室に以前に二度、そのことについて問い詰めたことがある。
『紗映の病状?‥』

一度は煙にまかれたようにはぐらかされた。
二度目はそれとなく聞いてみた。強い意志を込めた瞳をぶつけて。
やがて、泳いでいた松室の視線が美奈に向けられる。
『そう‥
何でもお見通しなのね。』
『私以外でもわかりますよ。あれは。

単なる外傷の悪化という次元ではないです。』

松室はようやく重い口を開いた。
『“予後不良”とだけ、今は言っておくわ。
彼女に両親はいないんでしょう。
保護者役が誰かいるのなら、その場で語ることは厭わない。

でも、今私の口から全てを言うのは時期尚早。
私からは、すべからく時期が来たら話すから。
信じて。』

『‥わかりました。』

だが、もはやあの薬の量が語らずとも真実を暗に告げている。

悪性腫瘍。
もしくは、それに似た何か。

『お前は俺と同じ死に方を‥いや、もっとだ、もっと悲惨な末路を辿ることに‥』

聞きたくない誰かの言葉。受け入れがたい現実。
だから、自分が護ろうとしたいと願う。

現実を強く変えたいと願うただ一つの心。

『死なせない‥
紗映は絶対‥私が護る‥』

美奈は、そっと病室を後にした。

そして始まる粛清の時へ

都内の街角、喫茶siestaには何時もの朝を告げる一日が始まろうとしていた。
日常をそつなくこなす。それ自体に特別の意味は存在しない。
だが、確実に一つの手がかりをつかむために片桐は一人コーヒーカップを拭き取りながら物思いに更ける。
日常に、自分の傍にいたはずの家族がいない。
まるでそういう感覚。
否、もはやこの怠惰な日常をそつなくこなすうちにそれは風化して始めからいなかったかのような感覚を身体に強制的に感受する。

『摩梨香を失ったこと、
それ自体は、もう自分の中で決着はついている。
いや、ついていたはずだった。

思えば、朝比奈がわしに南を、こんな寂れた喫茶店の仕事のお手伝いとして置かせてもらってくれたことは最初から彼女なりの計らいがあったからなのかもしれん。
11年前の傷を埋め合わせるように。』

その時、入り口の扉から微かなすきま風と共に来客が見えた。
そこには一人の壮年の男が片桐に話を伺うような姿勢で立っていた。

何か仕事帰りなのだろうか、その黒い背広を着た男は額に僅かな汗を浮かべ、端のテーブル席を乖離するように闊歩し、正面のカウンターに座った。
『ホットコーヒー。』

寡黙そうな男だ。
片桐は、そう思いながら静かにオーダーを受け取った。


誰かに、誰かの代わりを求めることは出来ない。
それは至極理解していたつもりだった。
だが、人間とはそれほど単純な思考の生物ではないらしい。
片桐は再び視線を床下に向けて耽りはじめた。

『あの青年がいなくなってから、
南は、この店から逃げるように姿を消した。
何か、自分に出来たことはなかったのだろうか。

まるで娘の初恋を見守る父親、あの時は笑い話ながらにもそういう雰囲気さえあった。
生き別れの姉を探す為に朝比奈と行動を共にしていた南。

幼なじみの唯ちゃん、クラスメイトの紗映さんも店に入り交じり
店内はそれそことなく華やかだった記憶を覚えている。

…やはり、自分は南を、摩梨香に重ねていた。
そうでなければ、ただのお手伝いの一人の娘がいなくなっただけだ。
バイトがやめて泣くような店長はこのご時世いまい。
‥不思議だ。
家族を失った男が、また家族を求めるなんて滑稽なことでしかないというのにな‥』

『‥失礼、何か考え事ですかな?』
カウンターの壮年の男が片桐に視線を合わせる。
『独り言のようだったが、何分室内の静寂で聞きいってしまった。申し訳ない。
失った家族を求める努力をしているのは、私も同じですよ。及ばずながらね。
だが、今はこのご時世私みたいな老骨には仕事がない。
やむなく、路地裏街道に身を置くような仕事でも口に糊する為には捌かなければならない。
せちがらいものです。

‥マスター、貴方は生粋の支配人にはみえない。
もっと芸術にあふれた香りがする。
失礼、以前は何か別の生業が?』

『私はピアノを‥教えていました。
ここも昔はその為の教室だったんでね。グランドピアノは残念ながらこの店の担保にしてしまいましたが。』
壮年の男は瞳を軽くうつむかせたまま頷いた。
『成程。
事情というものは、いかなる人間にもあるものだ。
私にもね。
今の依頼業はひたすらに精神的に負担のかかるものだが、
裏の街道を歩むものとして依頼主の事情など踏み入らないのが常識。
ただ、私が頼んだ部下への反応がまだ帰ってきていないところをみると
私がこれからまた仕事に出むかわなければならぬようです。


そして、私も独り身ですよ。訳ありながらのね。
珈琲。有難う。
釣りは結構です。この時、今宵そしてまたいつか仕事が終わりこの至高の一杯が機会あればもう一度味わえるように。』

壮年の男は万札を一枚、添えるようにコースターの上に乗せ、そそくさと店を後にしていった。

片桐は南の電話にもう一度着信を入れるべきか迷っていた。
だが、思考が雑然と乱される中、団体客が入り口にいるのを一瞥し、片桐は電話の受話器を置いた。


その日の夕方、朝比奈から電話があった。
『もしもし。』

『セント・ホスピタリアに来て頂戴。
一大事よ。
いや、一つじゃない。二つもね。』
『‥南がいたのか?』
『違う、

まぁ、それはおいおい話す。
早くしな。』
片桐は、店からタクシーを呼び直ぐ様セント・ホスピタリアへ向かった。