恵みの雨・2

『ねぇ、子供の頃を思い出して…
何かを見つけて、何かを失い、
そして、少女たちはやがてどこへ行き、どこへ消えていくのでしょう?

そのカーテンの先には違う世界があると思っていたわ。
薄汚れた幻を焼き付けて
それでもその先には何も存在しないことに
何故気付かないのでしょう?

やがて、冬が終われば‥
全ては元通りになるのよ。
この寒いくぐもりから目が覚めて
ようやく、無垢なる自由を手に入れられる。

願わくば…
神様、あと少しだけ、瞳を瞑っていて‥』


『おはよう。紗映お姉ちゃん。』
一人の少女が待ち望んだ瞳で紗映に話し掛ける。

『沙羅。おはよう。
そっちは調子はどうなの?来週は手術なんでしょう?
無理はだめよ。
何ならまだ寝ててもいいんだから。』

『…へいきだよ。
治ったら、また紗映お姉ちゃんにピアノを教えてもらうんだ‥』

こんな会話を聞くと、半年前の教会に居候していた時期をふと思い出す。
彼女、野木坂沙羅は未里市に佇む名も無き教会に半年前やってきた。
孤児院の代用品として。
神父、東城が両親を亡くし記憶を失った身寄りの無い沙羅を一人娘として引き取った。
彼女は孤児院にいた記憶では、面会に毎日来ていた姉が、ある日ぱったりとこなくなったショックをきっかけにまったく口を割らない失語障害に似た症状を引き起こした。

彼女はまだ14才の誕生日を迎えたばかりであった。
だが、
とある一つのささやかな出来事が彼女に変化をもたらした。
紗映の旋律である。
彼女が奏でる柔らかい、優しい旋律は
やがて、深い溝に墜ちていた彼女の心に小さなやすらぎを与えた。

『紗映お姉ちゃん、考えごとをしているの?』
ふと、一人でいると常に紗映は数ヵ月前の記憶をその脳裏に呼び戻してしまう。結局何が一番正しい選択肢なのはつかめないまま
無碍に時間だけが無情にすぎていく。
『教会で、
出来たらもう一度演奏したいね。
出来るなら聖歌を。
沙羅、あなたのために。

…私からのおまじない。
おまけつきね。』

『やったぁ。約束ね!』
普段は感情を吐露しない沙羅も、徐々に紗映になつくようになっていた。

一度、紗映が病棟にある器楽部屋でピアノを演奏したことがある。
それも入院した直後の話である。
その時の数十分の静かな演奏は、沙羅を始め病に苦しみながらも闘い続ける子供たちのささやかな安らぎとなった。

『鈴木さん、定期検診の時間ですので処置室にまでお越しください。』
『はい。
沙羅、また後でね。』
沙羅は軽く頷いて紗映に手を振った。


程なくして、沙羅も主治医の松室に呼ばれた為病室にまで戻ることになった。

『ねぇねぇ、沙羅ちゃん?』

その時、沙羅を呼び止める一人の女の子の姿があった。
特別顔見知りという訳ではないが、前の紗映の演奏を見にきていたり、休憩室の談話の際にたまに一緒に沙羅と同じ場所にいたりしている一人だった。
『なぁに?』
よくよく見ると、彼女は両目の下に不思議なくまをつくっていたのが見えた。
『ねぇ、何かここ最近、私の病室のまわりがおかしいんだ。
甲高い、痛そうな声が響くの。廊下で。
私、夢とか、寝呆けてたのかなって思ったら
全然違ったの、寝付けなくて、うるさくて‥
沙羅ちゃん、恐いよ‥』


不意にその子は沙羅にしがみついてきた。
『声…
空耳じゃ、ないのかな?』
彼女に懇願された結果、沙羅は今宵に二人でその事実を確かめることにした。


一方、片桐もまたセント・ホスピタリアに到着していた。
先程、病院の入り口にて看護士達の立ち話しを聞いてからというもの、気が落ち着かない。

それもそのはずであった。昨日の夜、病院に搬送された凄惨な遺体の話もさることながら、郊外の火災事故に無数の消防車、救急車が都心部の道路を飛びかった話。
だが、それら雑多なものよりも何より耳に残ったのは
一人の黒髪の少女の特異なる姿であったという。

『あの子、どこかで見たことあるのよ。

…思い出したわ。堀財閥の一人息子と一緒にいたのを思い出したの。』
『馬鹿ね。何もしらないの。昔話を。
堀社長がその昔築き上げた愛人達のなれのはてなのよ。
あの人は人格の優劣説を唱えていたじゃない、講演会で。
だから、一番本妻の子に愛情を注いでいたはずが
その子は出来がお世辞にもよくなかったの、だから、その昔11年前に事故で父親を失った施設孤児院にいた女の子を養女にしたのよ。

でも、これも長くつづかなかったと聞いたわ。
結局後釜を失った堀社長は新たな後継者育成よりも違う視点に基づいた計画をたてはじめたって話よ。

何か、素性の知れない輩とよく接触を試みてるといってるもの。

まぁ可愛そうなのは母親よね。堀社長の正妻。
家系の怨恨から土壌が崩壊するのを危惧して一生遊べるぐらいのお金を託して地方の名もないぐらいの街に流したらしいですって。

ほんとに愛情の欠けらもないのよ。自分が信ずる人間以外はね。』
『あら、でもあえて突っ込む形なら最後の一行は強ち間違ってはないんじゃないですか?』



『後継ぎを失ったあの社長はどうする気なのかしら?』
『何でも、諦めてはいないらしいのよ。』
『諦めていない?って‥』

『自分の義理の娘を、手段を選ばずに
我がものにしようと狙っているって噂よ。
それが何の目的は知らないけどね、いえ、知らないほうがいいわね。そんなの。』


その日の夜、病院裏の勝手口に幾人かの男女が会話をしていた。
片桐は入り口の前までゆっくりとした歩幅で歩く。

やがて、その入り口で見知った顔を見つけた。
『北織君…
久しぶりだな。
堀君の葬儀から間もないがあれから、どうだった?』
『いえ、ある意味平穏を保ってはいます。
たった一人の生徒を、のぞいては。』

片桐がその言葉に反応して美香に歩み寄り、思わず美香の肩を揺さぶりながら問い詰める。
『南か…南なのか?北織君。行方を知ってるのか!』
『ちょっと、叔父さま‥』
余りの行きすぎた問い詰める行為、片桐は明らかに冷静さを欠いていた。
『いや、すまない…
柄でもなく取り乱したりして。
最近、南のことを考えると頭が冷静でいられなくなる時がある。
こんな気持ちに取りつかれたのは生涯で幾度もない。
…困ったもんだ。差し詰め失った娘の身代わりを強く求めるような行為だ。』

『さっき、紗映の容態を少しうかがってきました。』
片桐にそうつぶやきかける美香の表情はいつにも増して重い。
『…あの婆さんがいってた一件はやはりそれか。で、彼女の容態はどうなんだ?』

『医師は言葉を濁しています。
おそらく、容態は私たちが思っている以上に悪いのでしょう。
最悪の事態を考えることも‥
叔父さま…
私はもう、教師でいることに疲れてしまいそうです。イズミを失い、由香里を失い、月島さんの安否もわからずじまい。
その上に紗映も…

これが、組織の復讐なのかと邪推してしまいそう‥
私の大事なものを一つ一つ、崩されていく‥…』
美香は、その場をうつむき薄らと身体を震わせた。

『まだ、諦めるのは早い。なんとしても、今我々ができることは
身近にいる大切な人間をこの手で守ることだ。
北織君。君は幾度となく紗映を助けてきた場面があるじゃないか。

そのおかげで‥紗映にも助けられただろう?

だから、今は我々ができる小さなことをやるんだ。
俺はいつでも君たちのそばにいる。
こんな爺いだがな。』

『‥ありがとうございます。
いつも、私は叔父さまに励まされてばかりで…
本当なら私がしっかりしないといけないのに‥』
美香は泣き顔を必死に堪えて平静を装う様を繕った。

その時、ナースステーション側からとてつもない呼び出しのベルが鳴った。

『ぐあぁぁぁぁぁぁぁ!!』

否、それは呼び出しの音ではなく明らかに人間の叫び声であった。それも尋常でない何かにとりつかれたような声であった。
『なんだ、今のは…?』


『叔父さま、私がみてきます!ここにいてください。』
『あ、おい、北織君!』


その声はまるで断末魔のような異様な呻き声のように周囲に不快と苦痛を撒き散らしていた。
あわてて、同じ階の患者たちが何事かと目覚めて廊下をうろつく者までいた。
『紗映っ!紗映!!』

美香はノックもせずに紗映の病室に飛び込むように入った。
『先生?』

そこには、美奈に抱き抱えられるように眠っている紗映の姿があった。
しかし、容態は明らかに普通ではない。瞳は不意に律動し、まるで強烈な薬で強引に意識昏睡にしたかのような状態にもみえた。
『紗映は‥?』
『私が、“能力”で今抑えました。‥大丈夫です。』
『そんな‥
そこまで、ひどいの。彼女の容態は‥』
美奈は強い意志を込めた口調でつぶやく。
『このままだと、一週間‥もちません。
でも、大丈夫です。私がいれば、大丈夫。
絶対に死なせはしない‥
今、彼女の容態をみにきていた一人の女の子を席を外すために晋子叔母さまに付き添ってもらいました。

先生、あと、大事な話が‥』