恵みの雨・5

いつか見た同じ景色は、時間と共に悲しい景色へと変貌する。

その温もりは永遠に叶わぬものに。
その離れた手は二度と彼女の元に辿り着く事はなく。
『‥おはよう。月島さん。』
聞き覚えのあるような懐かしい声で南は目覚めた。
どれくらい転寝していたのだろうか。
いや、起きたまま意識だけが暗い闇の底にくぐもっていたかのような意識の下にあったと言ったほうがいい。
『‥目覚めはどう?』
『…あんまり。』
一方の青年の表情はどこか哀しさと少しの申し訳なさげな表情に包まれていた。『毎日、ここで考え事をしてる。
病院と、この場所の行ったり来たりの繰り返し。
おぼろげながらにも、記憶を少しずつ取り戻して来てる。
…まだ、身体は痛むけどね。
ありがとう。
キミが助けてくれなかったら自分はどうなってたんだろうと思うと…』

『勘違いしないでね。』
当の南は、機械的な反応ですぐさま呟いた。
『癪なだけなの。
…これ以上誰かの掌で踊らされるのだけは。
結果的に、それが君を助けることにはなったのかもしれないけど。
…でも、それはあくまで結果。
私が望んだ行動じゃないから。
今でも、私は貴方を認めたわけじゃない。』

南のそれは渓の思惑には無い言葉の数々であった。
言わば拒絶。
渓は、訴えかけるような眼差しで南に語り掛ける。
『‥それでもいいんだ。
こんな、何も自分と言うものない自分に…

何度も、この何も無い世界から消えていなくなろうと思ったことか。
でも、不思議なんだ。
それらの迷い込んだ迷路‥抜け出せたのはわからないけど
今はもう、ふっきれてしまったのかな。
どうでも、よくなっちゃって‥
昔、両親にもよく言われたのさ、
“他人に迷惑をかけるぐらいなら、死んだほうがましだ”って。
でも、今はそうは思わない。

‥その言葉は、とても虚しいと、自分の心が訴えかけている。だから、生きてみたいと切に願う。

皮肉だよね。生きることも死ぬことも恐い。
僕は誰かの、何にもなれない。』

『‥それが良いか悪いかはこの際別にして。そういう人間は別段私はめずらしいとは思わないわ。』

『…月島さん、前に話してくれたよね。
自分は、戦っているんだって。
その言葉は、今の自分にはとても辛く厳しい言葉だったんだ。
…戦う。
思えば僕は、ずっと逃げていたのかもしれない。
彼女も、もしかしたらそんな自分の心の奥底に気付いていたのかもしれないと思うと‥
情けないよね。』
『もう。貴方は本当に地獄耳ね。
頭の回転だけは早いのかしら。そんなこと聞かなかったことにしてよ。
いまさらそんな言葉に他意はないわよ。』

少しの沈黙の後、南は古びたベンチからゆらりと立ち上がって海岸沿いに視線を移す。

確かにあの日の波の音は同じ日のように聞こえているように見える。
だが、決してそれは同じものではない。

『月島さん。
受験が終わったら、僕は何も縛られない、そんな生き方がしてみたい‥

そんな生き方って、自分にもできるかな?』
『…そうね。
まずはコーヒーのいれ方からちゃんと覚えることね。』

彼女は笑顔だった。悲しい程に優しい、薄い笑顔。
ふらりとベンチから立ち上がり、南は連なる水平線に向けてその瞳を閉じる。


『…私に、力を…!
お願い…
もう、一度だけ‥!』

律動する鼓動。
吹きゆく風、その全てが彼女のそばになびくように降り注ぐ。

南は力の依りしろとなる叡知の言霊を詠唱する。



私は貴方の心を融和する
私は貴方の心の痛みをこの胸に宿す
私は貴方の心のぬくもりに今触れる
願わくば、その心の深遠を解き放ち給え‥!


その海が果たして彼女の声を聞いたのかは知る由も無い。
だが、確かに一つの言霊が力となって亡き悲しき魂の移ろう道標の記憶となって彼女の心に共鳴する。

『季樹‥
教えて。私に…
貴方の瞳に焼き付いた最後の光景を私に‥
私に、貴方の無念を‥
その悲しい移ろえる遺志を全て、今私に…!』

しばしの沈黙は過ぎ、それから時間にして数十分、南は頃合いを見て渓と共にその海岸から立ち去った。

病院への帰路に差し掛かる途中、二人は数人の小学生ぐらいの子供たちを見かけた。

『‥あれは。
この付近にある教会に出入りしてる子達みたいなんだ。
最近、週にたまにこの細い帰路を帰ると子供たちが数人で遊んでるのをみかける。
いいなぁ。
自分もあんな時期があったのかと思うとさ。

…って、ちょっと、どこに‥?
月島さん!』

南は話半分を聞いたまま、そっと草むらの端にいた一人の少女のもとへと歩み寄った。
よく見ると、周りにはまばらの数人の子供たちに取り囲まれているが
その子は一番幼い年らしくおまけに顔は半べそをかいたかのように泣きっ面に赤く染まっていた。

南は、膝をそっとおろし少女の目線まで立って話し掛けてみた。

『どうしたの?』

泣きべそを見られたくないのかその女の子はかぶった白の帽子を深く目線の下までおろしていた。
『うぅ‥ぐすっ。』
『あらあら。もう。泣いちゃだめよ?

仲間はずれにされちゃったの?』

『私、運動が苦手で‥缶蹴りしていたんだけど、もう10回もオニのままなの‥
うぅ‥
やっぱり、男の子にはかなわないよ。』

さすがに10回というのは大袈裟というか、可哀相という気もしないでもない。
基本、子供達の遊びはマニュアルというものはなく子供自身がルールだといえる。
その意味では、律儀に遊んでいるとも言えなくもないのだが。
南は、すくっと立ち上がり、その女の子にそっと左手を差し出した。
『ずるいわねぇ。
ちょっとは手加減ってこともしてあげればいいのに。
じゃあ、ちょっと私も一緒にやらせてもらっていい?』
『えっ?』

少女は、一瞬、戸惑いながら驚いた表情を見せた。
『私も混ぜて。君のオニ。私が今変わってあげる。』

それから数分後、
その場にいた子供たちが呆気とした顔立ちで南の顔を見るはめになっていた。
『な、なんで?』
『缶、あそこにあるよね?‥』

当の、南に缶を譲り渡した女の子がまるでしてやったりという表情で数名の男の子をみつめていた。

『はい。これで全員ね。』渓までが唖然とした表情で南を凝視していた。
『貴方もやる?』
『い、いや‥いいよ。』

『お姉ちゃん、すごい‥
この辺は入り組んだ場所が多いから、普通の人にはまず見つからない隠れる場所がたくさんあるのに‥』

まるで全員が南に秘密のネタというべき手の内を読まれていたというような話であった。
『じゃあ、今度はかくれんぼにする?』
『無理だよ〜』

一斉に男子一同のため息に似た声が響いた。
『せっかくだから、教会に一度足を運んでおこうかしら。

‥子供の時以来だから。
この子たちをみていたら、なんだかまた、思いだしてきた‥

嬉しい記憶も、悲しい記憶も。』
『お姉ちゃんなら、大歓迎だよ!
今日は教会でお料理パーティーやってる。私のお友達がいるんだよ〜』

話に追従するように、南と渓は夕方の残りの時間を使って
街外れの教会へと足を運ぶことにした。