恵みの雨・4

美奈は、松室の言葉に従うままにセント・ホスピタリア内のラボラトリーに向かう。

『…これで、予感は確信に変わる。
そして、この街に巣食う病魔の正体もつきとめられる。』

松室は、研究室につくや否や、美奈にとある話を語りはじめた。
『一人でお喋りとは悪趣味だね。麻衣。』
『おば様‥』

研究室の奥を見渡すと、先客がいた。
そこには気配すらまったく消したかのような面持ちで晋子が松室の瞳を凝視しながら立っていた。
『一人の人間の生命がかかっているんだよ。
事は一刻を争う。麻衣。知っていることがあるなら私が全て聞いてやるよ。』

『ティンダロス‥』

一同が静寂に包まれる。
特に晋子の表情はまるで金縛りにあったように歪んだ。
『な‥、ははっ。
冗談だと…いってほしいね。
私は占星術が十八番でね。フィクションに作り描いた神話のもののけの話は得意ではないんだがね。』
晋子が呟いた。
そして、美奈もまた、真摯な表情で事のいきさつを伺う。
『ティンダロスとは、とある神話の都市伝説の一角を担う異業の生物。

次元の狭間に巣食う、人ならぬ存在。

…そして、ティンダロス症候群とは
人間の運命から逃れられぬ病魔、癌が生命活動を炸裂させるように進行していく異常促進進行形態。

常人ならぬ精神力を持つものが最後に訪れる、地獄の入口。

何人からもその病魔から逃れる事はかなわず、ただ指を加えて死を待ち望むしかない‥

残酷という言葉さえ、生温い。
病魔を超越した病魔。

ティンダロス。』


松室が、とある一枚の資料を卓上に置いた。

『…………っ!!』
一同が石像のように静止する。
まるで魂を抜き取られたかのような表情であった。
『これは…
人と呼べるのかい。』
写真の中の“人”であったかのような人型の肉塊は否が応でも、その異形の病魔の存在を三人の脳裏に焼き付けた。
『もう、‥もうしまってください。直視できない…』
美奈が頭をふらふらとさせて、視界をぼやつかせて呟く。
『このクランケは一体誰なんだい…?』
晋子が松室に問い詰めた。
『トップシークレットよ。虚栄の塔の‥』

『な……』



松室は再び調べごとがあるからと言うことで、晋子と美奈の元から去って行った。

廊下で美奈が一人外の窓を見つめ、想いに耽る。
『紗映は、あとどれぐらいもつんですか…』

『一医者として答えるなら、今、生きているのが奇跡と言ってもいいわ。
正直、いつどこで心臓が止まってもおかしくはない‥私には指をくわえてみていることしかできない。
‥ごめんなさい。』

美奈は、窓にそっと両手を添えるように触れる。
この底無しの悲しい彼女の運命を、ただ寄り添うこともできずに呆然とするしかないのであろうか。
『叔母さま。‥病室に戻ります。』

『美奈‥っ!』
『私がいれば、ずっと傍にいれば彼女を死なせることはないんです。
絶対に。

だから、私は私の役目をただ‥』

何が彼女を動かすのだろうか。
まるで何かが乗り移ったかのように強い意志の力が彼女を突き動かしていた。
人の運命をねじ曲げてまでも、何かに向かい戦おうとする意志の力。想いの力。
晋子は、ただその場に呆然とうつむいたままであった。

『ん、?おーい!』
突然、反対側の廊下から聞き覚えのある壮年の男の声が響いた。
そこには息を切らして廊下を駆けてきた片桐の姿があった。
『なんだ、あんたか‥』

『何だとは何だ。
急に呼び寄せて、全く礼儀も何もあったもんじゃない。
まぁ、そんなことは些事にすぎん。
それよりも、大事な話だ。南が‥
南が、この病院にさっきまでいたという事をな。
若い学生らしい男と一緒にいた。飄々とした、どこか内気で内向的な感じの青年といったところか。
‥もっとも、それらは全て入り口のナースの一人から聞いた話だ。
真意の程は定かではないが。
何はともあれ、南はこの街の近くになりをひそめていることは間違いない。
今こそ、我々が一致団結して、一緒に協力しないといけない時なんだ‥』
美奈は、軽く俯きながら片桐に問い掛けた。
『‥彼女なりの考えがあるのでしょうか。
学園祭の、青華祭の時はあれほど私と打ち解けてくれた彼女が
今になって、たった一人で行動することには
何らかの意味があるんじゃ‥』

続け様に晋子が語る。

『付け加えるなら、あいつの“サトリの法”は
周囲の人間の心の機微を寸分無く看破する。
ここにいて、こうして私たちが会話していることさえも
あの子の力が完璧だった場合、感知されていることも考えられる。
普通であって、普通でないんだよ。“能力者”という存在はね。』

二、三、会話の掴みをたどりつつ
美奈が、二人に何かを求めかけるような表情で問い掛けた。
『コンタクトを、とるだけなら
私に任せてもらえませんか?
きっと、一日あれば彼女の足跡は掴めると思います。』
『しかし、それだと誰が紗映ちゃんを‥』

『一日だけ、一緒につれていかせてください。』
一同は戸惑いの表情を隠せない。
ただ、このまま静観していても紗映の容態が好転することはありえない。
そう考えるならば、あるいは‥
『叔母さま。
南が、今しようとしている事を幾分かでも察知できますか?』
『水晶でかい?
…不可能というわけじゃないが。』
『ある程度、目星はついていたほうがいいです。
お願いします。』

一人、手持ち無沙汰のまま片桐は病院内への入り口へと戻った。
すると、先程それらしき噂話を話していた看護士の女性が、患者や他の医師を交えた座談をしていた。
片桐はその話に壁際からそっと耳を立てて伺った。


『さっきの女の子‥まだ記憶から焼き付いて離れない‥

あの瞳、あの一瞬の目付き、目が会った瞬間あそこから一秒でも早く逃げだしたいと思ったんだもの。』

『あの子、どこかで見たことあるんだよな‥
この街にちょっと前からいた女の子だったような気がする。しかし、それでもあんな表情をする子じゃなかった。
怒りでも、憎しみでもない、何か虚ろな、何かに取りつかれたかのような瞳‥』
『この病棟もおかしな患者だらけよね‥』

『そういえば、さっきも何か独り言をぶつぶついってるようなサラリーマンがいたわよね。
大方、会社をリストラされてお先真っ暗といったとこじゃないかしら。くわばら、くわばら。

この街では、あの人に逆らったら生きていけないんだから‥』



一方、紗映の病室に戻った美奈は外へと出向く準備をしていた。
時刻はもう夜の八時を回っており、寸分、面会時間の終刻が迫っていた。
『紗映‥
目が覚めた?』
『うん、私、夢をみてた‥。また、イズミの夢を。
イズミが手を振ってるの。

私だけに。

何なんだろう‥
私に、何かを伝えようとして夢は終わってしまうの。』