果ての浅瀬

『ガソリン…?』
明らかに室内から異質の、意識を不快にさせる臭いが充満していくのを感じた。
だが、地場は極度の精神衰弱のせいかその異変には然程にも気付いてはいない。
『まさか、黄の手下か‥?用済みになった俺を始末しようと‥

く、くくっ‥ははは‥
なんて、ざまだ‥
邪魔なもの全てを消し
全てを手に入れるつもりだったのが、
まさか、俺が一番の世界の邪魔者だったとはね。

‥笑えよ。
こんな惨めな俺を笑えよ。まさかあんたと心中とはな。

パーティで見たあんたのドレス姿は誰よりも輝いていた。
そのシルエットを脳裏に焼き付けて消え去るのも、まんざらじゃないな…』
地場の一方的な独白に南はまったく耳を傾けていない。
その視線は、ある一方に向けられていた。
やがて、二、三思考を張り巡らせた後、すっと、地場のもとに歩み寄った。
『貴方と心中?
冗談じゃないわ。』

南が冷徹な表情で地場ににらみつけるような視線を送った。
『こんな状況でまだ助かる気でいるのかい?
ここは元よりゴーストタウンに近い町外れの廃墟ビル。
偉強が俺をここに引き付けたのも、全部手下をつかって用済みの俺を消そうとしたんだろう。
畜生…
俺は、“アンネリーゼ”にただ従って、忠実に動いていただけだったのに、なんで‥』

地場の目はまるで全財産を失ったかのような途方もない敗者の瞳であった。
『今、貴方に死なれたら困るのよ。
私が、ね。

ここまでようやく辿り着いた螺旋の渦。
全てを煙にまかせてなるものか。
絶対に、追い詰める。


…私の右手につかまって。』

南が地場にそっと右手を差し出した。
その行為に何故か他意も何もないように感じた。

それよりももっとちがう次元で、地場はもはや眼前にいる一人の黒髪の少女に
敵意も何も、感じなくなりはじめていた。

やがて、階段の一階から正面の入り口へとつながる通路まで二人は辿り着いた。
だが、そこは既に火の渦であった。
南の予測通り、何者かかがばらまいた揮発性の液体に便乗した火炎が入り口の扉を猛烈な勢いで塞いでいる。
『あ、ああぁ‥』
地場はうなだれるように地に膝を突いた。
『くっ…』

南は、地場に問い掛けた。『短距離は得意?』
『お、おい‥勘弁してくれよ。俺に火だるまになれって言うのか!?』

『‥聞かなきゃよかった。まったく。
もういい。少し目を閉じていて。』


南がそっと言霊のような何かを呟いた。
その声は空気と絡み付き、その場にあった全てを焼き尽くさんとする火炎に浸食するように調和する。

ただの言霊ではない。それはまるで“冷たい空気”
彼女が手のひらからかざした力が、やがて空気に強烈な水滴を結び付けて熱を中和させていく。

その一室が、まるで柔らかい雪のような空気に静まっていくように。

やがて、数分後、彼女達を塞いでいた火の施錠は黒い跡形と共に霧散していった。
『………』

隣にいた地場は、その場の一瞬の出来事をただ呆然と幼子のように見守ることだけしかできなかった。

『捕まって。私に。』




そこから、幾らかの距離を二人は確かに駆けた。
夜が更けきり、彼女に抱いた偽りの憎悪も、もはや他人の記憶のように移ろっている。
自分が何をしようとしていたのか、それさえもピントの中に定まらずにいた。

『寒い。
ちょっと無駄に力をふりしぼった結果がこれだわ。
まぁ、結果よければ全てよしとはいうわね。
よかったと言うと、違うけどね。』
そこは、いつぞや悟流と来た埠頭であった。
水平線に近い彼方の海から僅かな暁光が見える。
『何で‥
俺を、助けたんだよ‥

俺は、俺はアンタを陥れようとしたんだぞ‥』
視線がきちんと定まらない中、地場は埠頭に一人腰掛ける南に呟いた。

『さぁ‥
知らないわよ。

人を助けるのに、理由がいるとでも言ってほしかった?』
『……』
『まぁいいわ。
気まぐれってことにしといてあげるわ。
これ以上、私の目の前でバタバタと人が倒れていくのを見せ付けられても困るし、

そして、それは、“彼女”の願い通り。
ねぇ、アンネリーゼ。』

無論、アンネリーゼはその場にいるはずもない。
だが、南はこの会話さえも彼女にあえて聞かせるように皮肉を込めてその一言を放った。

『そろそろ話してはくれないの?
悟流を付け狙った理由。』
南は、埠頭の横にたたずむベンチに座っている地場に問い掛ける。
『話す気はない?
なら、少し質問を変えるわ。

貴方の今までの人生は、幸せだった?』

『っ………!』
地場が歯を食い縛るように何を耐えるような表情を見せる。

『‥ゴミみたいな人生だったさ。
あぁ、ゴミみたいな…
どうせもはや誰にもつながりのないちっぽけな一人の群衆だ。
興味があるのなら、聞いてくれ。』

そこからの話は、地場の過去のとある一人の女性の話に照準が切り替わった。


彼女が、地場の霧散した人生の唯一の傘であったこと。
虚栄の塔。
地場がすがりついた唯一たる神聖な場所に置いて、地場は彼女から逃れられない枷を背負うこととなった。
『こ、これは…いったい…』
『死体よ。
見ればわかるでしょう。』

独房のような一室で、暗闇に包まれたまま地場はある尋問を受けた。
『この男はね、とある一人の少女に恋をした。

でも、その恋は許されない。
何故なら、vanity様は汚れた魂を決して許さない。
この男は彼女によって清い心を失い汚れてしまった。
だから、粛清した。

そして、これからは、貴方がこの男になるのよ。
地場。

心配はいらない。
彼の記憶、身体は少しずつ私が貴方にしみ込ませる。貴方がなるべく苦痛を生まないように、彼女と過ごしてあげるのよ。

間違っても恋愛感情を‥いや、わかっているわよね。
八つ裂きよりももっと見られない目にあうだけだから。

そうそう。この男には義理の姪がいるのよ。幼なじみの。
彼女を、この塔に連れてきなさい。

あとは、ユリの聖書をきちんと片手離さずに持って生活するのよ。

vanity様。
vanity様。
どうか、願わくばこの哀れな一人の青年に
ささやかで、幸せな結末が訪れますように。』


椅子のベンチで一人…
それは、彼女との出会いにも似た状況だった。
小雨が街を静かに潤す頃、彼は出会った。その少女に。

『‥それからは、たった数日だったけど自分にとっては全てが潤いの人生だったよ。
だから、失った時の悲観はもう何物にも変えられなかった。


だけれども、俺にとっては全てが他人であったはずの彼女に、また恋をしてしまった。

それが、全ての誤りの始まりだということさえ知らずに。
彼女の名前は‥



名前は‥
ぐっ、お、思い出せない‥薬を耐えて、耐えてそこだけは我慢して、バットトリップしないようにしていたのに、
脳が、俺を否定する‥
まるで俺と彼女の人生をなかったことのようにしていくんだよ…っ!』


南は、地場の話を聞くうちにやがて一つと一つの点と点が結びゆくのを感じた。
『愛されたかった‥ね。
残念ね。

好きになってくれたら、好きになるの?
それは、感情の高まり?
恋とみせかけた錯覚かどうかもわからないというのに。

‥あぁ、でも私もそんなこと言えた義理じゃないのよ。
私だって、恋心をどこかに失ってしまったヒトだから。
皮肉なものね‥
貴方の一番の理解者が、私だなんて。』
沈黙の先に、南がすっと地場の胸に手をかざした。
『私は心の融和。
貴方の心を知ろうとする心のクビキ。
教えて、貴方の心を。
そして、願わくばその求めるヒトが貴方と私で同じ人間であることを強く願う。』



絶え間ない沈黙。
二人だけの心の共有。
“サトリの法”によって射抜かれた心の障壁を取りのぞく。
『この、女の子は‥
後ろ姿‥わからない‥記憶がいびつにスクリプトされている‥
でも、私は知っている‥

『そう、そうね。
私は強く責めすぎたのかもしれない。
誰しもが、愛することよりも、愛されることを望んでいる。
…こう言いきれなくもない。
淋しさのカルマに侵された世界だと尚更。
しかし淋しさを抱えているのは、冷たい心を抱いている私とて同じ事。


季樹君‥ようやく、聖書の先に、貴方の心にたどりつけそう‥
待ってて、もう少しだけ‥』

南は、ベンチの下に埋もれるように崩れ落ちた。