逢魔が刻・4

南の表情には寸分の迷いも狼狽も無かった。
ただ、そこには毅然とした意志を持った瞳があった。地場は彼女を直視さえ出来ずにいた。
自分の方が本来ならば圧倒的な優位な状況にあるはずなのに…

全ては自分の計算通りのはずであった。
だが、今ここに来て彼女を直視出来ない心の移ろいが僅かな隙を生もうとしていた。
『見るな‥っ!
そんな目で、俺を見るなっ!』


『貴方の、目的は…?
悟流は本当に何も知らないわ。
貴方がどうあがいたとしても、目的を彼に求めることは出来ないわよ。

それを知ってても、尚破滅の道をたどるつもりなの?』
『うるさい…
うるさいっ…!

俺には、もうこれしか残されていないんだよ‥

ユリの聖書をただ、無心に読み、その心を持って行動すれば
全てに救いが訪れる。
そして、俺のこの心の雑念も全ては晴れる…』

語りの最中で地場の血走った瞳が南の瞳と交差するように合う。
『その目を、やめろっ!』
地場が手にしたナイフの柄を力強く南の頬にぶつけるように叩いた。

『黄…
偉強!俺だっ!

そいつは吐いたか?
ユリの聖書の残りのありかを‥』

地場が半ば怒りに任せた声で電話口の黄に向かって叫ぶように放った。
『…こいつは用なしだ。
“アンネリーゼ”様が、そう仰った。

故に夜の帳へと解放した。どことでも好きな場所へと赴けとな。
今からそちらへ合流する。アンネリーゼ様が、その女を拘束しておけとのことだ。
失敗したら‥いや、まぁ分かっているだろうが。』

電話口から機械的な偉強の声が響く。
『何だと…
アンネリーゼ様から直に命令を受けたのはこの俺なんだぞ…
何故そんな勝手な命令が‥そんなことがあってたまるか!

これじゃ、
虚栄の塔の幹部のポストになる俺の野望が‥
あいつの首だけでももらっておかないと…』

『地場、お前はユリの聖書の横流しを大元を使っておきながら、右も左もわからない学生風情にまで小金欲しさに横流しして足がつきそうになったのを忘れたのか。

あの学園を監視することが出来たのも全て、アンネリーゼ様の先の見識があってのこと。
本来ならば、やらずともよい尻拭いよ。
私は私の目的の為に動くのみだ。
小物の戯言に興味はない。』

『そんな‥馬鹿な…!
偉強、俺の話をきけっ!おい! おいっ!』

『…日本語では、愚にもつかぬ聴衆をエキストラと言うのだな。
所詮貴様も、その群れの犬にすぎないのだな。

『愚蠢的狗。(馬鹿な犬め)』

『くそっ…
くそぉぉぉ‥っ!』

地場の携帯電話が無造作に地に転がる。
『悟流の友達を殺したのはあの男だったのね。

あの男は、悟流の友達の死をまるで他人事のように語った。

貴方みたいな臆病者が…
小さな欲望に負けて溺れた先はこんな末路。
でも、私は許さない。
たった一人の、大切な人をゴミのように失ってしまった‥

私が、彼の未来を潰してしまった…』

南は、独白のように語った。
そして、一人、呆然と佇む地場の姿を哀れむように見つめる。
『まだだ‥
俺の野望をこんなところでおわらせてたまるかっ…

誰も信用しねぇ、俺一人だけで全てを手にいれてやる‥くそぉっ‥』
地場の狼狽に追い打ちをかけるように、南が言葉を重ねる。
その時、何かが強い音を立てて弾けるような衝撃音と共に、南の両手を拘束していたチェーンロックが真っ二つに切り裂かれるように外れた。
『そして、相手の力量を考慮せずに己の欲望のままに動いた報いを受けるのよ。』
『馬鹿な…っ、鎖が!
一体どういうことなんだ‥』
南は沈黙を保ったままその場に静止している。

一方、地場は床下の鎖に視線を捉えられていた。
力で引きちぎったような跡は微塵も無い。そもそもあの形態からして腕力でちぎれる代物ではないことは明白であった。
『この女…普通の人間なのか…?
いや、“アンネリーゼ”は確かに俺に言った。
この世界に歪む力の波状。それは新しい世界を望む力。
遡っては昔。
確かに存在した尋常でない者への憧憬。
おいおぃ、おかしい話だ‥第一俺は未だ、“薬”には手をつけていないんだぞ‥

まさか、この女が‥』


『くそっ、おとなしくしてろぉっ!』
地場は右手に持ちかえたナイフを無我夢中で南に振りかざす。
だが、視線が不意に途切れた刹那、南はすっと一瞬、横に躱すように身を払った。
まるでナイフの軌道を全て読み切っているかのように。
『私にナイフは…効かないわよ。』
『振るだけで物を傷つけようとする愚劣な行為。物の傷つき、傷つけられる様の本質を知りえていないのよ。』

南は床に落ちたナイフを拾い、廃屋と化したこのビルの窓から投げ捨てた。
『これで丸腰ね。
さぁ、どうするの?異変をかぎつけた善良な市民がかぎつけてくれたら、あなたはもうすぐ終わりよ。

観念することね。』


地場の顔に悲壮な敗北の表情が浮かぶ。
奇しくも、自らを守っていたのはちっぽけなただ一本のナイフに過ぎなかったとさえいえる。
だが、想いは消えない。
自分が望む、野望…目的‥その感情が燻り、やがて自分の未完成の感情は憎悪となってばらまかれる。
『ちくしょぉっ…!
あいつさえ、俺の前からいなくなったりしなければ‥こんな“薬”をばらまくことはなかったってんだよ!

皆俺が悪いのかっ…?
悪いのは、俺を愛し続けない女達だろうがぁっ!

うぉぉぉぉっ‥はぁ‥はぁ‥』

『そう…
思い出に浸るあなたはすごくみじめね。
だけど、その“想い”を背負っているのは私とて同じ事。
私はただ知りたいの。
真実…願わくば真実を。
私と接してしまったが故に若い命を散らしてしまった彼のために。
想いの、残り香が私を動かせる。』

南は、その場にへたばるように膝を付いて塞がっていた地場にそっと語り掛けた。
自分のこの言葉が、願わくば彼にとって、何かを変える兆しとなればと願った。
その時、南はビルの床下から何かの滴る音を微かに聞いた。

『…?臭い?
この臭いは…?』