逢魔が時・3

『余りにも痛々しき悲痛なる姫君の運命。

無慈悲に、数刻の暗転を持ってして彼女は再び窮地の淵へと落とされる。

悲しきかな。
これもまた彼女のさだめ。
百合の聖書がもたらした、“救い”そのものであった。』


それは時間にして、数秒にも満たない一瞬の間合いであった。
覚えていた光景といえば、彼女が、南が、単身特攻するかの如く地場に向かっていったこと。
そして、そのわずか次の瞬間に、彼女は不可視の痛撃によってその可憐な肉体を哀れにも宙に舞わせてしまったこと。

数秒での理解など到底不可能であった。
吉田はただ、眼前の絶望的な光景にただ、抗う気力を失いその場に呆然と立ちすくむだけであった。

『何を共謀していたのかは知らないが、逃げられないと言ったはずだよ。
その程度の脚力と機動力で黄を欺くことなどできはしない。

黄の根本にある力の拠り所は暗殺術だ。
意拳”を根底にした‥ね。相手は自分が何を食らったのもわからずに昏倒する。逃げ道は皆無だ。』

黄は一撃の下に昏倒した南の脇腹を力付くで抱えて己の肩に抱いた。
『…男は?』

黄が小声で呟く。
地場は分かり切ったように笑みを浮かべて返した。
『黄。お前に任せるよ。
俺は男を拷問するなんて趣味じゃないんだ。

例の場所で待つ。
どちらにせよこいつが吐かないと話は始まりはしないけどね。そのへんは任せて俺は、そっちのほうで‥』
にやりと地場が恍惚の表情を混ぜくるめた笑みを浮かべた。
『さぁて…
夜はまだまだこれからだよ‥ふふふっ。』



静寂の一室。
部屋の所々から漏れる濁った水滴はこの部屋の老朽さを微かに物語っていた。
『お目覚めかい?お姫様?
まだまだ朝は来ませんよ?今宵の夜はどうか、貴方と至高の幸福を楽しめますように。

‥しかし、見れば見るほど男の衝動を突き動かしそうな美人だ。
もっとも、…あのオンナとは違うが‥確かに、俺の乾いた心を潤してくれそうだ‥』

南は両手を宙ぶらりんにされた状態のまま、部屋の一室の柱に鉄の錠で腕の自由を奪われたまま膝を床に付けた状態で吊されていた。
『難儀なものね…

それでいて絶対の力の前で虎の威を借りる狐。
哀れな男。』

『いつまでそんな強がりをいってられるんだい?』

地場は手製のナイフを南の首筋から上着に目がけて一直線に振り下ろす。
『なんて綺麗な肌だ。
言葉に尽くしがたい。やはり、あんな男のものにならなくて正解だったじゃないか。なぁ‥月島さんよ‥』
『どうして、知っているの?

貴方が…』
南が、右手の錠に力を加えてジタバタと動かす。だが、錠はその程度の力ではびくともしなかった。
『‥あと、少しだけ、触れられれば、届くのに…』
南は葛藤する。生きて動かぬ証拠がこの眼前にいるかもしれないと言うのに。
だが、今ここにいるのは自分とこの男だけだということはある意味好機とも呼べる立場ではあった。
ここでこの男の真意を見抜き、真実へと駆け抜けることさえできる。


あとは、悲しみを打ち砕く、凍り付く雨が降るのをただ待つだけ‥
『知っていたらどうする?。
所詮大事の前の些事。
この汚れた世界の選ばれし役者達の末端にもなれない哀れなエキストラ。
所詮俺や君の人生の運命の一ページにも入ることはない人間じゃないか。』

一瞬の刹那、その場に冷たい空気が忍び寄る。だが、南は不可思議な微笑を浮かべながら地場に問い掛けた。
『そう…
そう思ってるなら、それでいいけど‥』