逢魔が刻・1

『奇遇だな。』
含みを込めた表情で茗荷は悟流に語りかける。持っていた携帯灰皿からは灰の残骸が今にも溢れそうであった。
『茗荷さん‥どうしてこんなところに。
まさか、有給休暇の余暇に来たわけじゃないでしょう。』
『相変わらずのつまらん冗談だ。
営業マンの話術としては二流だな。』
茗荷の口調は相変わらずであった。さして現実のそれを指摘されているような感があり、悟流は困惑の表情を浮かべた。
『‥なに。今日は別件だよ。俺が兼ねてから睨みを効かせている、堀財閥の一人息子の変死事件だ。
部下の青木と、いくらか数名。資料室で幾らかの書類と睨めっこ状態だったがらちがあきやしない。
だが、俺はこの事件の一件には何者かの陰謀が紛れ込んでいる気がしてならない。』
『陰謀?』
茗荷は話を続けた。
その概説とは、堀財閥の一人息子であった堀季樹は、実父でもある代表取締役、堀英男の裏の顔に気付きはじめていたのではないかと言う憶測。
堀英男はこの未里市、繁華街、etcに絶大な権力を持つ実業家である。
その堀が、とあるルートを使い物品の横流しをして巨額の闇金を蓄積していた。
『その物品とは?』
覚醒剤だ。
いや、もはやそう言うのもおこがましい単なる代物でない。
人間の体内に入り強力な生体反応を引き起こし、あらゆる身体能力を飛躍的にみなぎらせることさえできる。
実際、ここ数か月に起きた都内の暴行沙汰の事件に幾らかの類似した例が見受けられる。
だが、問題はそんな些末的なことではない。実は‥』


茗荷が小声で呟くように語る。
『…大元殺害に使われた薬物と、堀財閥の裏ルートから採取した薬物の痕跡が一致していた。
つまり、黒幕は大元の薬物の流出先を丸ごと自らの手に取り込み、なおかつ大元自身の消去を企てたのだ。
解せない‥
交渉人としての立場を暗密に守っていたはずの大元があっさりと第三者に薬物の在処を譲渡してしまうものなのか‥
もしくは、大元自身が堀に何らかの恨みを抱いていたとでもいうのか‥』

『そんなことだから、想いの在処なんて、わかるはずがないのよ。』

不意にその言葉が脳裏を過る。
『ともかく、堀を糾弾するテーブルに立つきっかけはできたのだ。

その本丸に、我々はようやく立つことができる。
戦おう。吉田。
心半ばにして散った友の無念を果たすためにな。』


反対側の道から南がゆっくりと悟流の方に戻ってくる姿を茗荷は垣間見た。それに反応するように直ぐ様茗荷は姿をくらまそうとスーツを羽織りそそくさと反対側の入り口へと向かう。
『ここまで来たらもはや腐れ縁だな。吉田。
いつか、お互いの暗雲が晴れたら、俺の庭の六本木で一杯飲み明かすのもいいだろう。』

茗荷は公用車で待機させてある青木の元に向かった。



『ごめんなさい。
取り乱したりする気はなかったの。』
戻ってきて水族館の出口に近いベンチの角に南がぽつんと一人佇む。
『ただ、忘れられなくて‥私のせいで‥私のせいで大切な命を散らせてしまったことが悔しくて‥』
不思議と小一時間前までまばらにいた人込みが夢散するように静まりかえっていた。
『奇遇…
もはやそう言っていいのかさえわからないな。やんぬるかな、と言うべきか。』
吉田の務める会社の取引先の元締めであるこの街の権力の象徴ともいえる堀財閥。
その一人息子であった高校生。堀季樹の死。
『葬儀の前に何度かあの社長は見たことがある。
本当にエゴが服を着て歩いているような存在だったよ。
自分に対する絶対の自信。高い教養、他を威圧する鋼のような鍛えられた肉体。まるで完全無欠だ。
ただ一人の男としても、何もかもが規格の外を闊歩していた。』


だが、彼には少なくとも他者からの絶大なる信頼があった。
堀英男と呼ぶだけでまるで赤子も黙るような威圧感。言葉を選ばずに抽象するなら、所謂カリスマと言うべき存在。
それ故に、末端の社員である大元の殺害に関与していると考えられるか否かはあまりにも短絡的な思考ではないのかと脳裏に過る。
堀の人物像とあてはまらない‥というのが些か本音であろう。

『謝りたい…
いつか、全てが終わったらただ、一人の貴方と生きた人間として‥』
帰路の途中、南は途方に想いにふける。
自分で決着を付けるために飛び出した街。
行方を捨てて探す在処、かつて確かに在った安堵は今や無の彼方へと消え去った。
それもこれも、全ては季樹への想いに帰着するからであった。

幾度かの乗り換えを行い未里市へ戻る。
『あぁ、そう言えば月島さん。
またこんな話題をして申し訳ないんだけど、ちょっと顔見知りの例の刑事の方からこんな話を聞いたんだ。
ユリの聖書を持った少女の行方…
自分のまわりにいないか?って聞かれたんだ。


何のことか一瞬わからなくて答えに戸惑ったんだけど、何の事なんだろうかな‥さしあたり、自分のまわりにはいなかったと言っておいたけど…』
南の表情が一変する。
『‥百合の聖書…
虚構に咲く一輪の百合。そんな話をあの男が知っているわけがないわ!』
だって‥と、南は続きを後悔の念で語る。
『知ってるわけがない‥だってそれは、私とあの聖書を編み出した人間しか知らないこと。
そしてそんなことは、あってはならないこと…
悟流…貴方は騙されている‥
せめて、“そんなことは知らない”と答えておけば、パーティーの中で話を聞いていた人間に私の存在を勘ぐられることはなかったのに…』


それは彼女的には致命的な誤算にも等しかった。
何も知らない悟流にその非を問うのはもはや愚劣なる行為ではあるのだが…
『‥誰か、この話を聞いてる。
気配を殺して聞いてる。』
駅から離れた市街地の傍だけに人はまばらにしか存在しないが、南はその微かな気配の澱みに敵の存在を感じた。
『‥まさしくその通りだ。隠密行為はこのあたりにしておくか。
‥どうやら、手にいれたいものが二つも今宵手に入りそうだ。なぁ。黄よ。
こんな時日本語でどう喜びを表現すればいいんだろうな‥ハハハハッ!』

南と悟流を前方と背後、二人の男の影が重なるように現われた。
市街地の空に静かに映る薄い白光の満月が四人の姿を醸し出すように照らしていた。
『この声は、あのパーティーの時の‥

だが、もう一人の壮年らしき男のあいつは…』

その場所が冷たい空気に浸食されていく。
気温の寒さとは全く異質の、恐ろしい程の妖気ともいえるまがまがしい空気が二人を飲み込まんとしていた。
『めんどくさいのは嫌いなんだ。待たせた分、手短に済ませようじゃないか。

大元が握っていた聖書の物のありかをさっさと吐いてくれよ。吉田さん。』
男が一歩、吉田に歩み寄った。