渇いた世界

『…もしもし。』
その最初の第一声はどことなく脆く、何かにすがりついたような声のように聞こえた。
そもそも、メールアドレスに記載されていた数字をそのまま辿って打ち込んだ数字がそのまま彼女の電話番号になっていたのは不自然ともいえる偶然であった。
『月島さん…?あ、俺。吉田、だけど…

覚えてる、かな?』
電話口の向こうは軽くしどろもどろになりかけている男の声があった。
南は軽く返答する。
自分が軽く発した一声で吉田の口調に少しばかりの柔らかさが戻ったようにも思えた。
『元気、だったかい?』
もっと語り掛ける言葉はあった。だが、大元の事といい、自分の事といい今はその単純な思考の切り替えさえもできない自分がいた。『あのさ、パーティー
君は、無事だったかい?

月島さん…すまない!

俺のせいで、俺の甘い判断でパーティーは台無しに、君にも多大な迷惑をかけてしまった…』
出て来る言葉はひどく稚拙で事務的なものであった。だが、南はそんな言葉をまるで受け流すような素振りで振る舞う。
『もういいよ。そんなの。私は平気だから。』

『身体、君は、身体に異常は…大丈夫だったのか?』
南は、少しの間を置いて
『うん。』と答えた。

『ねぇ、気晴らしに、どこかにでかけようか?』
『え…あ、あぁ、えっと‥』
『私、ちょっと行きたい場所があるんだ。』
得てして偶然の積み重ねから起こり来る“予想外”とは恐いものだ。
だが、あのパーティーの一件の失態は、前提がどうであれ自分の言葉で彼女には遅かれ早かれ詫びを伝えなければならないだろう。悟流は、夜に南と待ち合わせをする約束を取り次いだ。
何でも、海岸沿いに面する街のはずれに最近新しく出来た水族館施設があるらしい。
丁度仕事の予定も明日から白紙になってしまい、皮肉にも時間だけはどうにでもなる状況下ではあった。
『水族館か…
大学の頃に…思い出してしまう行為自体は、自分が年をとってしまったことの証かもな。』

幸いにして今日は履歴には誰からの連絡の足跡もない。
気持ちを切り替えるには今日が最適の好機なのであろう。
悟流はそう思い込み、夜まで繁華街で雑多な場所で時間を潰すことにした。


そして、その日の夜。悟流は半ば急ぎ足で待ち合わせた場所へと向かった。
ろくに自宅に帰って憩う時間も無かったせいか無造作に伸びた髪と髭が気になって仕方なかった。

視線の向こうから一人の黒髪の少女の姿が見える。
『‥おまたせ。待った?』
南は今日は前のパーティーの時とは異なり前髪まですべて黒髪をストレートに落としていた。

大人っぽい印象は以前のそれからあったが、今日の彼女の姿からは形に表しがたい悲愴感のようなものを感じた。

『私も実はこういう場所は子供の時以来なの。楽しみだなー。』
だが、当の南の嗜好は目の前の煌びやかな光景をただ眺めることだけに集中していた。
館内を幾らか宛てもなく二人巡回するように歩く。
南はふとエンゼルフィッシュの槽に辿り着いて足を止めた。

『見てみて。この魚すごく綺麗!』
南は黄金色と青い迷彩に包まれた熱帯魚の泳ぐ姿に視線を注いでいた。
美しいものは、脆く崩れやすい。
少しの力を与えるだけで壊れてしまう。いとも容易く。
『…でも、貴方も、槽の中にいたらおしまいだよね‥
閉じ込められているみたいで。』
『いやいや、熱帯魚なんて放流したらそれこそとんでもないことになってしまうんだから‥
当然、生態的な理由が第一だけどね。』
『そうなの?』

南は今度はまじまじと悟流に視線を向けた。
しかし、何も深く考えずにただ彼女の小さな喜びを噛み締めている姿を見ているだけで悟流は不思議と悪い気持ちはしなかった。
今、ここにいる自分がまるで何か見えない感情の渦に流されて、‥洗い流されていくようであった。

それだけちっぽけな事の喜びの享受さえ理解できない程に悟流の心は混乱していたのであろうか。


『不思議だな。』
『ん?』
不意に視線を槽から外し天井を軽く空を仰ぐように眺めながら悟流は呟く。
『月島さん。君といるとまるで若い頃の自分に戻っているみたいだ。
いや、君がそう俺を振る舞わせてくれているのかな?
…何というか、うまく言葉にすることはできないな。』
『そう?』
『…昔の俺に、一歩踏み出せる勇気があればよかった。今でもそう思う。
正直、こんな世界‥今のいままで嫌いだったよ。興味もなかった。
いつも、ただ無情に怠惰な毎日を過ごしていた。
君は、あの稀に見る夜のどしゃぶりの雨の日に、見ず知らずの俺を助けてくれた。
…その一歩が、
人を大きく変えることさえあるということに気付いたよ。
もしかしたら、俺も、強くなれるんじゃないかって。』

それは、他の誰でもない自分の口から紡ぎ出た言葉であった。

『‥偶然だよ。偶然。
そう思ってくれると、こっちも悪い気はしないけどね。
貴方は正直。ほんとに。
自分で怠惰だなんて卑下することなんかないよ。』

悟流は視線を水槽と重ねながら、過去のちっぽけな記憶と自分に別れを見いだす契機を計っていた。
『明日。会社にいくよ。
堀財閥の社長室にも。

はっきりさせてやる。この手で。
もう俺は、迷わない。』

『堀財閥……!?』
南の表情が一変した。
それは今までに悟流に見せた表情のどれでもなく、何かに怯え、憂う冷たい瞳と化した南の表情であった。
『月島さん…?』
『…でもない。』
悟流が怪訝な表情で南をみつめる。
『何でもないっ!』

南は、悟流をその場にほったらかしたままそそくさと出口の方へと歩みを早めて行った。


時折見せる彼女の冷たい表情。だが、それも彼女の姿の一翼であることには変わりがない。

今、自分が何かを取り戻しつつあるのは紛れもなく彼女が自分の心の傍にいてくれたからなのだ。
それは、性別も何も関係ない、言葉にするとしたら、何の変哲もないただ、一人の友して。

分かっていた。
それよりも、もっと自分達は可笑しいほどに単純な関係であるのだろう。
だが、それが
『愛になることはありえないから。』


『独り言はそのぐらいにしておいたらどうだ?』
吉田が誰かの気配に気付いて背後を向く。
そこにいたのは刑事の茗荷であった。