ノーザン・スノウ・1

沈黙に包まれた部屋の外から、一人の男の気配がした。
コン、コンと軽く鉄製の扉を叩く音がする。覗き口から見える男の視線は見覚えのある男のものであった。『吉田。』

茗荷が署内の渡り廊下へそっといざなう。
『拘留期間は終了した。
証拠不十分で貴殿を釈放する。
行け。』

茗荷が吉田を一瞥する。
『何か、言いたげだな。』『‥いえ。今は心配している身内の元に帰ってあげることにします。
後のことは、それから考えますよ。
もっとも、そんな余裕も精神も今はなさげですがね。色々とご迷惑をおかけしてすみませんでした。』

『吉田…』
そう言ってそっと署の外へと一人、吉田は小さい背中を向け歩いて行った。

『茗荷先輩…』
背後から部下の青木が茗荷を呼び止める。
『なんだか、やりきれない始末ですね。
状況証拠的に吉田が黒になっておかしくないはずじゃないですか。
それが咄嗟の捜査陣解散の号令。マスコミをまくのには苦労しましたよ。
業者の手違いで酒に毒物が混入されていたという話にすりかえちまった。』
青木は半ば上からひたすら強制的に伝言をとりもつだけのつなぎ役になっていることに不満を感じていた。
『堀財閥側の何らかの圧力がかかったとしか思えん。
だが、それを追及する行為など笑止千万。
問題は大元だ。
始めからこの構図は大元の知己である吉田を利用しての大元を消す為の計画的犯行だったとしたら?
犯人は堀財閥に怨恨を抱える人間だという線は一理あるともいえる。

大元の意識が安定しはじめているとはいえ何かまだ拭えぬ不安を感じる…
青木。大元の身柄を新宿の署内管轄の病院に移送するんだ。』
『はい。承知しました』




帰り道、悟流は何かに取りつかれたように携帯のメモリーを軽くかじかんだ指でスクロールする。

『入ってない…
昨日送ったはずのメールさえも。
無意識のうちに間違えて消してしまったなんてことは…』
まるで昨日のパーティーの全ての出来事が虚ろいた幻のようにぼんやりと浮かんでくる。
彼女の、南の覗き込んだ笑顔は無垢で、どこか寂しげながらも印象から消えることはなかった。
それから程なくして槙絵の元にむかった。
『あ‥』
槙絵は呆気にとられた表情で悟流のほうを見る。
『ねぇ、兄さん、あ、パーティ、どうだった?』
槙絵の言葉には歯切れがない。
無理矢理、どこか言葉を探しているようにも見えた。『あのさ、
渓君。戻ってきてるんだって。
近いうちにこの街に戻ってこれるかもって。
よかった‥』
『そうか。
なら自分が心配することはないな。
来年からは大学生だ。
頑張れ。槙絵。』
『う、うん‥』

その日の夜は自宅に帰宅してほとんど何をするでもなくただベッドの中で泥のように悟流は眠りについた。
『さと‥る‥
聞こえて、いるか‥

俺だ‥

俺だっ‥!』
途中、失い行く意識の寸前、悟流は聞き覚えのある声のこだまを静かに意識の底で微かに感じていた。
翌朝、悟流は未だ年末まで契約を入れていた近場の朝刊に目を通した。
冒頭の記事の白黒の活字を見た瞬間、その手は凍り付いたようにとまっていた。
着信が鳴り響く。
もはや何から手をとればいいのかが分からない。ただ、あの日の深夜に起きた悪夢に等しい現実のラストシーンが記憶に絡み付いて離れることはなかった。