魔女の余裕・5

署内の深夜の廊下は静寂とした空気が流れていた。
この時間だと周囲の住宅街からの喧騒もさして響くことはない。もっとも、繁華街からわずかの距離を置いた立地の場所だけに署内の回りで騒ぎを起こして羽目を外す空気もそうは起こらないのかもしれない。

廊下から取調室に一人の制服の男の影が映った。
『…気は変わったか。』

悟流は虚ろな瞳をドア越しの刑事、茗荷に向けて放つ。
茗荷が睨み付けるような眼差しで視線を返す。
そこにいたのは何かを言いたげな表情を残したまま、消沈と現実の喪失感でまるで脱け殻のようにくすぶったままの人形であった。
『携帯…のチェックとは。悠長なものよ。
自分のケツに火がついてることもわからないとはな。
まぁ、本音を言わせてもらうと俺もこんな些末的な事件よりも
先日の、うちのお得意様の財閥の怪事件の捜査本部に首を突っ込みたいんだよ。

…世の中は理不尽で出来ている。
時に、一つの物差しでしか物事を見れないお前のような人間は、堕落して行くときは早いものだ。
あくまで黙認するのか?
お前がそんな態度のままだと、俺も手段を選んではいられなくなるんだぞ。』
言葉に幾度となく取れる皮肉があった。
だが、パトカーに乗せられていた時の粗暴なチンピラに等しい刑事とは大違いだった。
この男、茗荷の年令は三十代前半と言った所であったがその素顔の奥には何か情念にも似たものが感じられた。

思えば自分のこのような意志の弱さはある意味、情念のなさが起因していたのかもしれない。
茗荷の瞳に目が合うたび、悟流は消沈を隠しきれなくなった。
『現場で麻薬らしきものを大量に摂取していた大元は意識不明の重体だ。
大元の意識が戻れば現場の状況を万が一にでも証明することはできる。
だが、不思議なことにその薬物が入ったグラス一式は現場から消えており、お前が調達した酒からは人体に致死量に値する麻薬性の毒物が検出されている。

万が一にでも、この不利な状況を覆すには、大元の意識が戻るより他はないのだ…!
明日、俺は非番なんだ。
祈れ、大元の回復を。それが吉田。お前の唯一の無罪の証の糸になってくれる。』


茗荷の取り調べはその三十分後に終了した。
何故だろうか。
彼は途中からまるで悟流のことをかばいたてているようにも見えた。
職種としての業務。だが、それを超えた個人の情念がかりたてているのだろうか。

『‥署長一式の見解は吉田を黒とすることに概ね賛同している。
現場の状況もまた明らかに吉田が黒であるようになっていた。
あたかも、まるでそれが設定であるかのように。
だが、あの怯えたような目。
…俺の長年の勘だ。
だとしたら、相当に、これは分の悪い賭けだと言わざるをえまい‥』
茗荷は、一抹の思いを胸中に秘めたまま署を去った。

それから数日、悟流は幾度となく無味乾燥な取り調べを受けた。
ある日は外見が格闘家同然の武骨な男。ある日は例の館にいた自分を拘束した刑事とは呼びがたい粗暴な男。
その数日で悟流は重要な事を忘れていたことに気付いた。
『そうだ。そうだよ、月島さんが、彼女があの会場にいたときは俺は既に酒の異変に気付いていたんじゃなかったのか。
俺はきな臭いものを感じていた。
なのに、結局自分の判断を決めかねたままで…』
悟流はいてもたってもいられずにあの日の夜の出来事を語る。だが、当の刑事たちは悟流の話にまったく耳を貸す態度はなかった。
ただ、彼らは職務として被疑者、吉田悟流を黒に仕立てることが出来ればよいのであった。


結局、三日にかけて続いた悟流の論争は徒労の泡沫と化した。
『……』


悟流は携帯の液晶を眺める。
いつしか南に送ったはずのメールが消えていたことに気付いた。
いや、そもそも始めから彼女の痕跡はその携帯に微塵も残されていない。

ただ、液晶を凝視しては膝を落とし自分の行動の無益さを噛み締める。
一通、管轄外の上司から
『分かりきっていると思うが、このままでは自主退職により選択はないことは重々、承知してはいるだろうか。』との勧告であった。
『そんな、バカな…
大元…
大元ぉっ…!!』








拘留より一週間が過ぎた。『吉田。面会者だ。本来ならばこれは俺の管轄外の範囲だ。だが…』
茗荷刑事の顔を見るのは四日ぶりであった。良く見ると瞳に若干の充血がみられた。
休暇を返上してひたすら捜査にあけくれていたのだろうか。
『高田さん…何で、ここに。』
文の表情は悟流を気遣っている故か少しの憂いを帯びていた。
『会社に、直接伺いました。きっと、ここならと思って…

それからは張り詰めた緊張と不安を全て吐き出すように悟流は文に話し掛けていた。
その二人の表情を茗荷の鋭い瞳が伺うように垣間見る。
茗荷は悟流の安堵のような表情を見ながら、先日部下の青木に聞いた悟流の供述を思い出した。
『事故発生に逢瀬していた長い黒髪の少女…か。それに吉田は二週間前にとある街道で暴行未遂を受け…

いや、ちょっと待て…。』
茗荷が思考の整理を行うべく沈黙する。

『ねぇ、吉田さん。
その女の子は‥どうして、今連絡がとれないの?

今こうなってしまってるのは、半分は…にも…』


悟流は再び黙り込んでしまった。
文に本当の事を話したとしても南との接触の点にまでは触れられたくはなかった。だが、今となってはそれは仕方のない話である。

『‥若いからなのかな。
無責任、だよね‥なんか。
私なら、ほおってはおけない‥
せめて、顔ぐらいは出せるし、メールだって…』

今、文に話したことを文は素直にただ聞いてくれていた。
そして、現状このような状態のままに陥っている。
邪推するのは決して無理な話ではなかった。
『高田さん。ちょっと席を外してもらっていただけますかな。申し訳ない。』


茗荷が立ち廊下で悟流に小さい声で話す。
『大元の身元を少し調べさせてもらった。
まぁ、こいつは、お前さんが思ってる以上に埃を含んでいた男だったんだがな。
叔父がセント・ホスピタリアに勤める医療関係の人間で
堀財閥と癒着してひたすら堀が貯えている薬品関係のの素材を横流ししている。堀の身内柄からも前々から目のうえのタンコブだったらしい。だが大元は堀の叔父貴筋に充たる血縁故、誰もそこには追及できなかったと言った方が正しい。


邪推になるが、堀の身内で大元に対してそういう感情を持った人間を調べていった。だが、何も得るものはなかった。
そして、大元の身内関係は薬品関係の他に中毒性の高い素材も様々な方法で売り捌いていたらしい。

だが、これらを半ば黙認していたのは堀財閥が圧倒的な圧力で我々の管轄にさえ圧力を掛け続けていたからだ。


なんてぶざまな結末よ。』『そんな…あいつが‥』

『拘留期間は終了する。お前は証拠不十分で釈放されるだろうがそれは建前だ。
このとんだ大元暗殺未遂の茶番劇の裏には黒幕がいる。

俺は、一人でもこの不毛な混沌に挑まなければなるまいよ。
吉田。‥今は耐えるしかない。
たとえ、汚れまみれた友だとしても、煮え湯を飲まされ続けても、白であることを証明させるんだ。』

茗荷の強い意志に満ちた言葉であった。
数分後、悟流は文に挨拶して拘留部屋へと戻った。