魔女の余裕・3

今日の日付がもうすぐ終わりを迎えようとしていた。
宴は終わる。
甘美なる歓声と酒の匂いに満たされた空間の中で、悟流は配膳されたグラスに年代物と思しきワインを注ぐ。

ちらりと悟流は窓際を眺める。
外の雨の具合はよく見えない。ただ、窓に軽く打ち付けるように降っている小雨の音は僅かに耳に入った。『大元…?』
背後に不意に視線を感じた。そこにいたのは視線を落としたままの大元の姿であった。
手元には先程まで読んでいたのであろう一冊の週刊誌が握りしめられていた。
『ま、まさか…な。』



『どうしたんだよ?』
悟流の言葉にも大元は歯切れの悪い返事で返す。
『あぁ、なんでもないぜ!さて、最後の景気締めだ。飲むぞ!悟流!』

大元はテーブルのグラスに注がれた赤いワインを一気に飲み干す。大元のアクションが口火になるように場の観客が一斉にどよめきと共にワインを口にする。
『カンパーイ!』
『乾杯!!』
ただひたすらに歓喜と甘美の坩堝と化したこの空間で徐々に悟流はその酒を飲み干していくと同時に胃が燃えるように熱くなっていくのを感じた。
『ぐはっ、なんて身体の芯に響く酒だこりゃ〜』
アルコールの熱を身体で受けとめている大元とは違い悟流の反応はまるで何かを検視するように鋭敏になっていた。
『おかしい。
ソムリエと確認した時と味が違うような気がする。』

突如に眩暈に似たふらつきを覚える。酒の酔いがこんなに瞬時に来るはずはない。
『く…っ』

不意に、その意識は途絶えた。
次に目が覚めた時は既に時計は翌日の針を刻んでいた。
時刻は二十五時。つまりは乾杯の時刻から一時間弱が経過していたことになる。『ぐ…まるで身体全体が麻酔にかけらたような、なんだ、この感覚は‥』


『ぐぅっ…』
頭が朦朧としている。思考すらままならない。
まるで宴が気付かぬうちに閑散と閉幕してしまったかのように、場はただ静寂を刻んでいた。
観客達は皆泥のように眠っていた。
これらは酒の勢いで眠っているのか、それとも‥
『…大元?雑誌だけが‥あいつはどこにいったんだ?』

その雑誌には一つの折り込みのような区別の箇所があった。
『堀財閥の御曹司変死の謎に迫る!

都市伝説?未里市に出没する神出鬼没の黒髪の少女とは?
謎が謎を呼ぶ怪事件!
本誌は一人の少女の行方を追う!
匿名による提供された情報によると…』

途中からそれらの雑誌の記事は支離滅裂としたゴシップに満たされた文章で埋め腐れていた。

『‥くだらない。
だからこういう雑誌は読む気にならないんだ。』

『月島さん…月島さんはどこに…?

まさか…』

厳密にはこの現状は宴は“閉幕”しているに等しい。否、それは前提が違っていた。

意識を閉じ、瞳を閉じて一日の日付が変わる時の刹那。
それこそがまさに閉幕という意味と同義であった。
『宴は、…終わったのか…』

悟流は何かに意識を奪われるように無我夢中で正面玄関に向かっておぼつかない足で歩く。

ガチャリとした扉の無機質な音が響く。
そこには、ある海辺の記憶の夢と同じ光景があった。ただ一つ違うのは、彼女の姿がいないことだけ。
『待ち人来たらず‥ってところですかい?
相変わらず無能そうな面だねぇ…ムカつくよ。お前。』
『………』
罵声と沈黙。威嚇と静寂。その二つが共鳴して悟流の心を蝕む。
恐怖の再来。
その視線の先にはあの日の雨の交差点のまがまがしさを再来させるかの如く、一人の男が意識の無い静止した人形のように立っていた。
『お前の言う通り、宴は終わりだよ。
ここからは、そうだな。人間が死ぬ話か!ハハハッ!』

おかしい。少なくとも眼前に佇むこの男の神経は尋常ではなかった。

『何が、一体目的なんだ‥あんた達は‥』
『目的‥ねぇ。まぁ残念ながらあんたに用はねぇんだよ。
俺たちはただ、確認しただけだ。』
『確認だって…?』
怪訝な表情で悟流が問う、だが、眼前の男はそれをいとも容易く流して歩み寄る。
『…お前がそれを知る必要はあるのか?
野次馬は早死にするぞ。
まぁもっとも、お前には面が割れてたんだっけな。
後々面倒事が起こる前に消えてもらってもいいんだがな。俺は面倒臭いことが嫌いなんだ。
…なぁに、殺しはしねぇよ。ただ、一生俺の顔を見て永遠と恐怖が浮かび上がるぐらいの傷を植え付けてやるがなぁ…』


悟流は釈然としないぼんやりとした恐怖が迫ってくるのを感じた。

宴の終幕と共に消息を絶った大元。
まるで用済みの役者が投げ捨てられるようにステージを床にして散らばっている群衆。
そして、大元が握っていた雑誌の在処。
全てが一つに繋がるような気がした。そう本能が感じた時、悟流の恐怖はピークに達した。


『うああああっ!!』
逃げる。一目散にただ全力で己の両足をつかって逃げる。
悟流は脇目も振り返らずに館の非常階段の三階にまで辿り着いた。
その時であった。
『…うわぁっ!』
老朽化した階段と手摺りに手足を滑らせ大きくバランスを崩した悟流は三階の入り口の扉から中央の階段の箇所まで真っさかさまに転倒した。

‥その数分後。

悟流を追い掛けた男はゆらりと歩みを重ね、人の気配がする非常階段に辿り着いていた。
コツ、コツと静寂をかき消すような足音が聞こえる。やはりそこに“彼”は逃げようとしていた。
『単純な、思考回路だ…
くくっ、どうせならそのまま野垂れ死にしてくれたらいいものを。』


スッと、男は悟流の倒れ付した場所に歩み寄る。
悟流は階段から転倒し、滑らせたはずみで額を強くコンクリートに強打させ、気を失っていた。
悟流のそばにある雑誌が無造作に床に破れたまま散乱していた。
『‥やはり、嗅ぎつけているのか。
ダニめ。
そもそも、あの御曹司が死んだのは不慮の事故なのだ。
それ以上の推論は必要がない。クックックッ…』

『本当に、そう、思っているの?』

それは突然の出来事だった。
一瞬、全く人の気配が微塵もない場所から何者かの声が意思のように伝わって男の耳に伝わってきた。
『な……!だ、誰だ…』
男は思わず一歩後ずさる。少なくとも悟流のような恐怖に体を呪縛させられた声ではなかった。もっと、心の深遠から根源的な恐怖をささやくかのような無機質で淋しい声であった。
『…あの雑誌の端…なんだ、あれは。
メモのような…』

男はすぐ様、その紙切れを手に取る。
そこには、四つの文字でただ小さく言葉が刻まれていた。
『報仇雪恨』

その時、男のポケットの携帯電話が鳴った。