月燭蝶・3

いつもの場所に、彼女はいた。
何か目的があるわけでもなく、一人防波堤越しの海を見ながら黄昏ている。
『どうしたの?』

今さっき見えた奴等の姿は幻覚だったのだろうか?
見間違いをするほどまだ視力は衰えてはいない。冗談も過ぎる話である。
『い、いや何でもないよ。気のせい。最近は疲れ気味なんだよ。ハハ…』
『の、割には顔が笑ってないね。』
悟流の表情がひきつった。

いつも、この時、この場所で。
雨が降る時が二人の逢瀬を呼び起こす契機となっていた。
彼女は、うっすらと記憶の在処をつかみかけているという。その屈託の無い笑顔は悟流の内気な心を暖かく溶かすには充分すぎるほどであった。
いつしか、悟流は身の内の話を語りはじめていた。

一人の自分の生き語りを話すことによって彼女に記憶が戻るきっかけになればいいと願った。
『大学時代、何かの本で読んだことがあるんだ。
人の記憶の引き出しは無限らしい。
つまり、忘れるという事象は現実には存在しえない。すべては忘れかけている。もしくは、覚えていることなのに記憶の引き出しの奥底にありすぎて届かない。
つまりは君が朝言ってた事と同じなんだね。』
視線の先で彼女がそっとうなずくのを感じた。
『あ、そういや会社で差し入れでもらった珈琲があるんだった。よかったら、飲む?って、なんだこれ。メチャクチャ冷えてる。こんな時期にアイスとかないだろ…バカ課長…』
悟流は一人で狼狽していた。そんな矢先、何の前触れもなくスッと一本の珈琲を彼女は手に取った。
『いい。
私、冷たいものしか飲みたくないから。ありがとう。』
一口、喉元に近付ける。この寒波強い中、あんなに冷たい珈琲を丸呑みしてしまうのは何とも違和感があった。
『…ブラック。んむぅ…苦い。やっぱいい。』
『やっぱり珈琲はお店で自分で入れないとダメだなぁ…』

『‥そろそろ、いくね。
眠くなってきちゃった。』
彼女はそっとフェンスから降りた。

『ん?これなぁに?何のパンフレット?』

一枚の埃にまみれたパンフレットを彼女は手に取る。
悟流は何かに恥じるように顔をうつむかせた。
『…大元商事。

親睦会のお知らせ?これって、何をするの?』
『お得意様に招待させるためのうちの会社の恒例の行事なんだ。

同期の奴らは自分の彼女や奥さんを連れてダンスパーティをするらしい。そして俺は見てのとおり、生まれてこの方異性とご縁がなくてね
受付をやる羽目になったわけさ。
今週の土曜日にね。
何かと物入りの多い時期に財布をくすねられたのはとんだ災難としか言いようがないな…』

『ふうん。』
彼女はまじまじとパンフレットを眺めて興味有りげに頷く。
『私が、なってあげようか?その日に。』
『え?』
悟流が目をきょとんとさせ振り向く。
『だから、パートナー役。…女の子がいれば会場の中には主賓と入れるんでしょ?
私にまかせてよ。こう見えても、ダンスは得意だし、少女っぽくも大人っぽくもお好み次第で。なぁんてね〜どう?今なら有無を言わずにOKだよ。』
『そんな…急に。だってほら、さぁ、こっちの都合ってもんがあるんじゃあ、ないのかい‥』

悟流は喋りながら口調がだんだんと吃り初めているのに気付いた。
『よしよし。決まり〜
土曜日は雨が降るといいね〜』


小雨に僅かに浸るように濡れる彼女の黒髪に思わず視線を奪われそうになる。
思えばこの数日は自分にとって多くの事が起こりすぎたのかもしれない。

彼女の突飛押しとも言える行動には不意を突かれたように心が翻弄される。
次第に、雨の上がる空と共に土曜の朝を迎えた。



『もうこんな時間か。
早く支度しなくちゃまずいな。えっと、この日に用意してたネクタイ‥は、と。』
少し焦り気味に支度を済ませて悟流は会社の同期でもあり今は自分の上司にあたる大元肇の自宅の近くにある式典場に向かった。
大元の親族家系はこの未里市の財閥の伝であり、この式典場もそれらの招聘のたむに大元が準備したのであった。
『新聞か…。ん。……これは、この記事は?
ちょっと、大元はいるか?大元だよ。』
『大元さんなら式典場の控え室にいたよ。』
悟流は慌てて受付の入り口を飛び出した。