月燭蝶・2

路地裏で闇に紛れて男達の談笑が漏れる。
『まだ見つからないのか?』
『はい…』
『馬鹿が。事は急を要する。vanity様の怒りを買う気か?』
『いえ。膳立ては既に揃っております。
仮初めの術法を必ずしやこの世界で成就させるために。
しばし、神よ。両眼を閉じていて頂きたい。
きっとvanity様の望む世界は築かれることでしょう。』
『よし。
俺は撒き餌の回収に急ぐ。ぬかるなよ。』
夜明けと同時に談笑の声は塵と消えた。





それから明けて一週間はまるでそれまでの雨が嘘のように晴れていた。
ちょうど一週間後の朝、降りしきる雨にまみれて会社への道を急ぐ一人のスーツの男の姿が見えた。
『また雨かよ…
ったく、なんで俺が傘を持ってない時に限って…あ』

悟流は時計を見渡した。時刻がとまっている。出社の七時かと思いきやその腕時計は一時間半も遅れていた。確かにいくら雨天と言えどもこの真っ暗闇からようやく明けたばかりの空は不自然であった。
『はぁ。ついてないにも程があるよな…』

ふと、出社までの通り道の日課だった海岸公園を通る。寄り道の代わりにふとその場所へ入り込んだ。
『ん、あれは…?』
ちょうどうまい具合に空が明け方の光に包まれたあたりの頃、雨も小雨になりつつあった。
その小雨の向こう岸に彼女の姿はあった。
『悟流さん?』

黒髪の少女はこちらに振り向く事無く返事をした。まるで背後にいた悟流の存在に最初から気付いていたかのように。
『濡れちゃった?
ごめんね。
まだ私も不安定みたい。えへへっ。』
振り向きざまの彼女の笑顔はどことなく無垢なものを感じた。
打算など微塵も感じられない。自然体であった。
『はい。ハンカチ。貸したげる。
そんなずぶ濡れな顔で行ったらまた怒られちゃうよ。』
『あ、あぁ。ありがとう。』
当の悟流は状況を半ば飲み込めていない様子ではあった。
『記憶、まだ戻らないのかい?』
不意に聞いてみた。あの雨の夜から不思議と彼女の事を気に掛けている自分がいた。
チンピラに不意に足元を掬われたところを助けてくれた。ただそれだけの解釈でおわらせたくはなかった。一人の女性として彼女の何かを知ることにより、興味という意識をかいくぐって彼女に触れたかったのかもしれなかった。
『会社の帰り道によく、ここは通るんだ。
なんかやきもきとした事があったら、ここを通って景色を見てるだけで落ち着く。
少しだけ、嫌な事を忘れていられる。』
悟流はつぶやく。だが、その言葉に彼女はさして興味を示し反応しようとはしない。
『忘れる…忘れるのは楽なこと。だけどね、悟流さん。
本当に大切なことは、辛くても、痛くても、忘れないよ。

忘れないから…
記憶もそう。本当は忘れてなんかいない‥信じたい。ずっと奥深いとこに眠ってると信じたいだけ。』


『ねぇねぇ、会社までにまだ時間あるかな?
よかったら、少し散歩しても、いいかな?だめ?』
『あ、あぁ…わかったよ。』

彼女の容姿もまた普通の十代の少女のそれとは異質を放っていた。
黒い薄い生地の上着にその上には純白と銀色が混ざった法衣のようなコートを羽織っていた。下の履物は黒いロングブーツであった。
左耳だけに微かに見て取れる水色の星のピアスも印象的であった。

やがて、雨の瞬く日の朝は悟流と少女の海岸添いの散歩は日課になって行った。
『君は雨が好きなのかい?そういえば、偶然だけど君は雨の日にだけ海岸添いにいるんだね。
前に眼鏡を無くして君に助けて貰った時から数日、何回かここは通ったけど晴れた日に君の姿をみたことはなかった。』
『それは私が雨女っていいたいの? 失礼な〜』
少女は子供のように頬を膨らませた。思わず悟流は狼狽する。

『冗談だよ〜』
悟流は苦笑いした。
『そういや、この先の場所は…ちょっと前…
いや、考えすぎか…』


そんなこんなで何かと考え事をしているうちに遂に本当の朝七時を迎えた。

『…ごめん。そろそろ。』
『うん。
また夕方、待ってるよ。』

その日の仕事の成果は散々なものであった。
どうにも自分は器用な人間の類ではないらしい。
そして夕方、海岸添いの朝ほどと同じ場所へ時期に似合わぬ汗をかきながら悟流は駆け付けた。
だが、悟流が躍起になって駆け付けた場所には
予想もしない人間達が待ち受けていた。
『………っ!』


『やぁ。』
こんな奴等はこの場所にいてはいけない人間のはずなのに、どうして。何故だ。
本能が身を退かせる。じりじりと悟流は後退する。
『う、く、ぁ…』
まさか、彼女は最初から…否、それは到底考えてはならぬ結論であった。

彼女を信じずして何も信じることなど叶わない。


数十分後
視界の先に彼女の姿が見える。
待ちかねた相手をまるで駆け付けて急ぐように走ってくるのが見える。
『大丈夫だよ…ちょっとだけ、
気を失っていただけだ。あいつらは?』
『あいつら?』

彼女は子供のような顔つきと怪訝な瞳で悟流を見つめる。
『ゆ、夢‥夢でもみていたのか…今さっきみたのは‥』
悟流の動悸は上がっていた。