月燭蝶・1

冬の風が強く揺れなびいている。
まるで何かが悲しみを伝えるように。
そしてまさかの通り雨。
都心のネオン街にたむろう人々は急な雨に戸惑いを隠せぬままざわついていた。『まったく、誰なんだ…今日は一日晴天なんて行った天気予報は‥』
急な通り雨の中、一人のスーツ姿の若者が横断歩道を少しふちの錆びた傘で駆ける。
その時であった。
『ぐわっ!』
突然、何か人影のようなものに強く体をぶつけられスーツ姿の若者は横断歩道の真ん中に尻餅をついた。
丁度信号は次の青い灯火を待っており、四方八方からクラクションの嵐が吹き抜けた。
『‥おい。野郎。
他人様にぶつかっておいて挨拶もなしかよ。
テメェの会社はどんな躾してやがんだ…?』

蛇のような邪険な表情で一人の男が若者に睨みを効かせる。
その奥には筋肉質の無機質な表情の男が明後日の方向を向いて立っていた。
『ぐっ、そんな、先にぶつかってきたのはそっちじゃないですか…』
チンピラ風の容姿をした手前の男の表情が一変した。『何だと?
俺に意見しようってのか?…野郎。』
『兄貴、集合の時間が。』『チィィッ!』

男の右拳が頬に飛んだ。

若者は歩道の脇道に倒れた。通り雨で人々が帰路を急いでいるのか、人込みの群衆に紛れたままその若者はうずくまっている。


『ちっくしょう…足が…
め、眼鏡は…く、くそぉ、こんな雨の中の視界じゃ何にも見えない…』
視界がうっすらとぼやけていく。
殴られた頬の痛みから来る微かな涙の滲みとこの雨が相まって余計に視界をひどく悪いものにさせている。その時、彼は一人の人の気配を感じた。
これは先程の男のものではない。明らかに女性の香りだった。どこか暖かさと冷たさを兼ね備えたような残り香のような匂いが雨にまじって彼にその姿を否応に認識させる。
『はい。…眼鏡、これ。』
彼女が眼鏡を渡す。
何でもないその一連の仕草には特別な意味などなかった。

眼鏡をそっと受け取る。そして彼はそっと視界の上にかぶさる彼女の姿をその瞳に焼き付けた。
『…きみは?』
美しい黒髪が風に揺れて雨と混じり新たな露を紡いでいる。
『私…また、名前しか思い出せなくなっちゃった…
いつもこうだから…
つらいことが起こると、記憶がまるでオーバードーズするように弾け飛んでしまう…
強い痛み…
だけど何かを思い出そうとしている。
大切な何か…』


『あなた、すごく辛そうに倒れてた。
だから、気付いたらこうやって…一体、どうしたの?』
『何でもないんだ。君が懸念することじゃない。

…ここじゃ目立ちすぎるから、場所をかえよう…
すまない。』

彼は自分の名前をその少女に名乗った。
『吉田 悟流。とある財閥の下請けの物品の横流しをしているしがないサラリーマンさ。
もともと他人から優柔不断ではっきり物を決断しない性格でね。
顔面にそういう弱さがでてしまうらしい。
だからあんなチンピラに足元を掬われるんだろうね。いやな世の中だよ。

いや、世俗のせいにすることが既に言い訳、か。』

悟流の容姿は二十代半ば〜後半と言ったところであった。確かに優柔不断そうな顔つきといえば否定もできないが人柄の良さはどうにも顔にしっかりあらわれており、わかりやすい。
自分で最後の台詞を自傷気味に言ってしまい思わず悟流は思い出し笑いのように笑いをこぼした。
それにつられて、彼女はつられてくすっと微笑んだ。『眼鏡、本当にありがとう。助かったよ。買い替えたばっかりでさ…君の、名前は?』

『そのうちね!』

そう言うと、黒髪の少女は明後日の方向を向いて小走りで去っていった。
『あっ、おいおい、ちょっと‥お礼ぐらいはっきりと…

行っちゃったか…
また、どこかで会えるかな…』




その夜、悟流は差し入れを持って従妹の元を訪れた。『槙絵ー!おーい?いるか?俺、悟流だよ!
差し入れもってきてやったぞ。』
槙絵は呼び鈴代わりの悟流の声に反応してドアを開ける。
『なぁんだ。悟流兄さんか。』

『大学推薦合格おめでとう。
よかったな。
そういえば幼なじみ代わりの彼は…まだ、行方がわからないのか?』
槙絵は不安そうな表情で語る。
『うん。相変わらず。
家出青年なんて警察は中途半端にしか扱ってくれないしね。何やってるんだか。』
『…そうか。
裕君。早く心配させずに帰るべきところに帰ってやるべきなのにな。』
『人の心配もいいけど、悟流兄さんはどうなのよ?
まだ会社で出世コースに入れないんでしょ?』
その皮肉に反して悟流は得意そうに反論した。
『いや、それがな。こんど何でもとある先から仕入れてきた教本を大量にさばかないといけないらしくてな。仕事は大忙しさ。まぁうれしい悲鳴だな。』
『ふうん…ほんと財閥の下っていろんな需要があるんだね。感心する。』

『じゃ、元気でな。また時間があいたら顔出すよ。大学さぼるなよ。』
悟流は槙絵に差し入れを渡して
自宅に帰着した。
そして、悟流は自宅に帰宅した時に財布の現金と会社の名刺がくすねられている事に気付いた。