この今日の理由を

身体中に痛烈な痛みが走る。
静寂な一室に空気を汚すような血の臭いが充満する。限界は間近であった。
意識が混濁する。
かつて人であった者、いや、人である者を捨てたと言った方が正しい狂った白衣の男が植え付けた傷跡が、ひしひしとその痛みを増していく。
『……母さん、知紗…』
うつぶせになった紗映の身体は冷たいアスファルトに無造作に転がるように倒れ伏していた。
一瞬でも気をぬくとその背中の出血と傷で気を失いかけそうな状態であった。
『…紗映、お姉ちゃん…


苦しい?
それが終わったら、復讐が終わったら、紗映お姉ちゃんは幸せになれるの?

ううん。気付いてるんだよね。
復讐は新たな悲しみの因果しか生まない。
苦痛しか生まない。
そして、待っているのは
絶 望』

『違う…ちがう…ちがう…悲しみは…それは…』

夢の中であの時の面影のままの知紗が紗映にほほ笑みかける。
『だから、まだ、こないで…
私たちのところに…
生きて…
私の代わりに…』

『知紗…っ!
あの時、父さんは、父さんは、私に何かを伝えようとして…だから、私は…!』
夢はその刹那に途切れた。『…愚か者が、愚か者を殺しただけ。
ただ、それだけにすぎないわ。』

扉の向こうから聞き覚えのある声が聞こえる。晋子の声であった。
『紗映ちゃん!紗映っ!無事なのかい!?
無事なら返事をしておくれよ!』
軽く扉をガンガンと叩く音がこだまする。紗映はその機械的な打撃の音に一瞬の恐怖を浮かべた。
それは、あの時にも似た決してあけてはならなかった扉が、もう一度彼女に恐怖を伝える為に存在しているかのようであった。
『い、いゃ、いやぁぁぁっ!』
扉の奥で紗映の悲鳴にも似た声を聞いた刹那、部屋の中は急速な静寂に包まれた。
晋子は半ば力ずくで内側からかかった扉をこじ開けた。
『紗映っ!無事かい!?』そこに足を踏み入れる二人。だが、今まで紗映を追い詰めていたあの男の存在は霧のように夢散していた。ここは半ば被検者の様態を観察する場であり、全く外界に扉のない部屋として作られている故この扉以外から抜け出す手段は存在しえない。
だが、床に飛散していた生々しい鮮血と紗映の横たわった身体が寸前の惨劇を物語っていた。
『紗映!しっかりおし…!』
『私に、任せてください。』
晋子の背後からスッとその細い右手を差し伸べた。
紗映の横たわった身体を優しく包むようにその右手が添えられる。
白銀の癒し手。

光が彼女を包む。
『これは…』
特に損傷の激しかった額と背中の裂傷に反応するようにその力は込められた。
『この場を離れないといけないんですが、この血の跡、これはどうするべきでしょうか…』
『やつらが処理するんだろうよ。

どちらにせよ、長居は無用。紗映は松室の元に連れていって治療させたほうがいいね。
願わくば、私たちの顔見知る者たちがこれ以上やつらの息がかかっていないものであると信じたいよ。』

『…そうですね。』



翌日、セント・ホスピタリアにおいて紗映は松室女医の治療を受けることになった。
『…瀬名医師が?』
付き添っていた晋子が先日の事の事情を松室に伝える。
『…不思議ね。
あれほどの裂傷があったはずなのに嘘みたいに痂が付着しはじめている。
本当なら出血多量でショック死してもおかしくない次元なのよ。』
『尋常でない疾患をみるのには慣れてるからね。あんたは、
それで、紗映は傷さえ完全に治れば大丈夫なのかい?』
『…いえ。』

松室が不意に視線を真下に逸らす。
『何がいいたいんだい?』『この写真をみれば、わかるわよ。
彼女の、運命が。』
不意に松室は一枚のスキャンらしき写真を晋子に手渡す。
『これは…』
紗映の頭部らしきレントゲン写真であった。
『失われた眼球の内側の皮膚組織が半ば壊疽している。その腫瘍は半ば臓器に転移。
悪性腫瘍に近い症状を折りだしている。
不思議とか言う次元じゃないわ。
今の今まで、生きていられたのが信じられない。』


晋子は言葉を失った。
紗映はその日は丸一日眠り続けていた。
『………』
セント・ホスピタリアの仮眠室で一人何かに憑かれたように眠る紗映を一人、見つめる美奈の姿があった。『まさか、あなたまで、私と…そんな…こと。』
彼女が生きる力をみなぎらせる理由は確かにあった。それは美奈のそれとは外面は違えど本質は同じなのであろう。
『思い出したくない、記憶が私を悩ませる…
ならば、いっそのこと忘れたいと願う。でも、人は決して輪廻から逃げ出すことはできない。』

晋子が美奈に呼び掛けた。『美奈?
紗映の容態はどうだい?』『安定はしています。
傷口の出血もほとんどないから大丈夫ですよ。よかった。』
『そうかい。
…美奈、』
『なんですか?』
『あんたの力で、紗映をなんとかしてやることはできないのかい…?』

美奈はうつむきざまに答える。
『私のヒーリングは当人の生命力の干渉と外傷の治癒にならなんとかなるのですが…ただ、彼女の場合は、末期ガンの患者に抗ガン剤を与えることと同じかもしれないです…』

『私たちは、紗映に何にもしてやれないと言うのか…』

二人はしばし窓の外の薄い水色の空を見つめていた。『叔母さま、唯や、おじさんたちのほうは大丈夫だったのですか?』
『あぁ、それは問題なかった。
幸い向こうは何にもなかったようだ。
全くヒヤヒヤさせるよ。』
片桐は美香と唯をつれて今日はそのままsiestaで晩餐にするらしいのことであった。
『さぁて、こっちも何か買い出しにいかないといけないね。』


しばしして、紗映の仮眠室(実質は入院患者の空き部屋の一つではあるが)の扉をノックする音がした。
『…はい?』
美奈がノックに反応する。扉を開けるとそこにいたのは十代後半の薄茶がかった黒髪ののショートカットの髪に
薄蛍光色のワンピースを纏った一人の女の子であった。
彼女は現代っ子らしい雰囲気と凛とした雰囲気をあわせもっているようであった。
『取り込み中でした?ごめんなさい。姉さんのお見舞いにきてたら、貴方の名札をみたからきてみたんだけど…』
少女はサングラスを外す。真夏の日差しでもないのに病室の中を闊歩するには少々不具合ではあったが。
『あ、あんた…え、映画、映画…あららら…あららら‥』
晋子はすっかり言動が挙動不振になってしまっていた。美奈は怪訝な表情で晋子をみつめる。
そして紗映の傷の容態を見るべく一人の新米らしい看護婦が中にそのまま入ってきた。
『あ、え‥あれ、えええっ!!』
少女は思わずため息をついた。
その奇想天外な状況に気付いていないのは美奈と眠っていた紗映だけであったようだ。
『あんた、あの映画(早すぎる夜を待つ)の主演女優の、若林…』
『ま、まってくださいね。ここでは本名で。諸岡です。諸岡。諸岡早夜子で。』『彼女がいた礼拝先ではお世話になりました。
だから、今でも紗映とは旧知の仲だったりするんですけど、これはサングラスをはずしたのはやばかったですか…ね?』
予感は不遇にも的中していた。ミーハーな看護婦と興味本位の患者たちにたちまち紗映の部屋は人だかりの坩堝と化した。