黒い高まり・3

『…どうして私だけが。』
失った左目を庇う度に思い続けていた。
痛みはとうに消え去っていた。
左目を失ってからの数年間の記憶はほとんどなかった。ただ、薬品に取り囲まれたような嫌気の刺すベッドにずっと囚人のように閉じこもりだったような感覚は僅かに記憶に残っていた。
そして、戻ってきた学園生活。
必死に左髪だけを恣意的に伸ばしてその事実をひた向きに隠し続けていた。
『…紗映。』
神父の横田が紗映にそっと話し掛ける。

『器楽部に入ったそうだな。どうだ?
新しい学園生活は。』
『えぇ、それなりに。』
紗映はまるで機械のような凍り付いた声で答えた。
普段教会の掃除をシスターと共にやっている柔らかい笑顔は片時も見られなかった。

『ねぇ、知ってる?
新しい転校生の鈴木さん。あの子、左髪だけわざと長くしてるけど、
屋上でひとりいるときに私、みちゃったの。
あの子さ、左目が…!』
『…!!』


それからほどなくしてこの学校内で紗映の居場所は無くなった。
何かを恐れるように、紗映の機械的な冷たい視線に他の生徒達は紗映と関わりを持たなくなっていった。
『…それで、ひとりか。
私もよ。
はぐれモノ同士、私たち
うまくいくかもね?』

『…そうね。』
紗映はイズミにくすっと笑いながら答えた。』


イズミの想い。
忘れない為に…その想いを…
『…あの塔に、母さんがいるはずなの。
父さんは知ってる…
だから、ひた向きに信じてたの、だから…
父さんは、もう一度すべてをやりなおしたかっただけなのに…』

紗映の薄れ行く意識に混濁して、過去の家族の追憶が紗映を誘う。
『母さん…?知紗…!?』
『お姉ちゃん!もう疲れたでしょ!こっちにおいでよ…

こっちは楽しぃよ?
何にも考えなくていいし、何にも苦しくないしね!』

『いやぁぁぁっ!
やめてぇっ!!』

小さい密室に紗映の荒々しい吐息が漏れる。
背中に尋常でない痛みが走る。意識はうっすらと混濁していた。
『…何をしたの…今…』
『そんなに生き別れた母親と妹が恋しいか。
お前の残留思念が物語っているよ。
妹に会いたいと願うお前の愛憎が‥』
『うるさいっ!私の…私の心をのぞくなぁっ!


私に、心なんてナイ…
そんなものはない…もうあの日と同じ時に忘れ去った…
貴方だけは絶対に、許さない!』

紗映がその左手に暗器を再び握り締めた。
半ば失いかけた意識でそれを瀬名に向けて力強く振り下ろす。
『がっ…ぐああああっ!』
紗映の渾身の一撃で瀬名は薬品が安置されている棚に叩きつけられた。
『ぐあぁぁぁっ、い、痛い痛い痛い痛いっっっ!ああぁぁぁっ!』

『体が崩れていく…うぅ、バ、バニティ様!な、なぜだ…なぜ、この私が、くそぉぉぉぉぉっ!!


く、くくく、くくくっ。だが、お前も、もうじきこの私と同じ運命をたどるのだよ…

が、がはっ…』


再び意識が混濁する。
背中の傷がまるで意志をもったように痛烈な激痛を訴え初めていた。

逆上した瀬名から貰い受けた鋭い爪のような斬撃が出血に混じって響く。
『今の言葉…

何を、あいつは最後に言おうとしたの…

イズミ…せんせい………』
力を振り絞って上着の懐から携帯電話を手に取る。だが、床に落ちた赤い吐血と共に紗映の身体は床に無造作に崩れ落ちた。