黒い高まり・1

『私の家庭は、至極平穏に包まれた環境そのものだった。
いつからだろう。
他人の家族を見て心が締め付けられるように感じたのは。
いつからだろう。
そしてそれさえも、ただひとつの静寂のように何も感じなくなってしまったのは。』


『紗映、
発表会は明日だったな?
明日は母さんと知紗は知り合いの元にいかなければならない。私も少し顔を出してから向かうので発表会は向かうのが遅くなるかもしれん。

今日はもう早く寝て身体を休めておくんだ。』
『…うん。パパ。ありがとう!』

『おねーちゃん!頑張ってね!』

その言葉が、生きていた知紗の最後の声となった。





『時間は、ただ痛みを増していくだけのもの…』
紗映は不思議に思った。
とある日の午後、
発表会も無事に終わり、父は何処か浮ついた表情のまま外の窓際を見つめている。
『…紗映。』
『パパ?』
『ちょっと、病院に行ってくる。
帰りが遅くなるかもしれないが…いい子にして待ってるんだぞ。』
『…うん。ねぇ、パパ。ママと、知紗は…?』


紗映は、その二つの言葉に過敏に怯えるかのような父の表情を垣間見た。

その日の夕焼けはまるで世の不吉を告げるような血のような深紅色に満ちていた。
『…パパ?』
『紗映…!パパだ!…いいか、もうすぐ帰ってくるから…パパが帰ってくるまで扉をあけるなよ…!かならずだ!』

父の電話ごしの声は息も絶え絶えだった。

『パパ!』

辛い。あまりにも不安と言う不安に胸が潰されそうになる。母の安否、一つ違いの妹の安否。そして、父の行方。

日常が夢散していく。
一人の少女に鋭く突き刺さる孤独の刄があまりにも痛々しいだけであった。
『…ママ。…知紗。早く、私の発表会の賞状、みせたいのになぁ…』
小学校入学と同時に買ってもらった木製のベニヤの机に一枚の筒に包まれた表彰状があった。

時刻はまもなく夜の十一時を廻ろうとしていた。ドアを無造作にガチャガチャと回す音がその時響いた。
父が帰って来たのだろうか?
先程の電話から一時間あまりが経過して自宅に帰着するにはちょうどいい頃合いであった。
『おねえちゃん!』


知紗の声?
それは疑いようのない声だった。
だが、先程の電話も相まって紗映は安堵と不安の双方の狭間で感情が揺れ動いていた。
だが、妹の声を聞き間違う訳もなく、次の瞬間紗映は知紗を迎え入れるように入り口の扉の鍵を開けた。
次の瞬間、ガチャリ…と音がした。それは外側から扉が開かれる音であった。
紗映は例えようのない闇をその向こう側から瞬時に感じ取った。

それは幼い紗映の心にも映え写った明らかな悪意、そのものであった。
『バシュ…ッ!』
夜の空気を二つに切り裂く鋭い嬌声のような衝撃。
『知…!』

『ぎゃあああああああっ!』

紗映は不可視の重厚なる衝撃の残骸を瞳に浴びその場に倒れ伏した。
『…ああああっっ!!』


紗映自身の悲鳴は数分後に消失した。
目を覆いがたくなる血だまりを一瞥し、昏倒した紗映を抱き抱え一人の男がつぶやく。
『普通の幼年期のこの女児がこの命ある闇を受けたらショック死は免れない。だが、予想通り。いや、それ以上か。
クックック…せいぜい妹よりはいい素体になってくれたまえよ…』





それから幾年もの歳月は流れた。
紗映には自分の片目を失い気を失ってから数年の歳月の記憶を失っており、元にいた実家の記憶を頼りに歩みを早めたが、
すでに実家であった場所は整然とした整地と化していた。まるで始めから何もなかったかのように。

少女はすがるように雨の夜、一つの教会の門を叩いた。
『神父様に教えを乞うことで私は普通の少女でいられることを強く願った。
私は強く訴えた。
復讐したいと。


あの日、あの夜に私の元にきたのは知紗じゃなかった。知紗ではない…誰か。

そして、父さんの電話に従うことのできなかった自分の愚かさを…』


神父は厳かな表情で語る。『紗映、いつぞや、この街に導かれるように戻ってきたとお主は言っておった。
今やそなたの父を探す術は皆無と等しい。
だが、一つだけ、主の道しるべが残していた…それは、茨の道…』


『父の言葉を信じなかった私に父に会う資格はありません。
それがせめてもの懺悔。
…ですが、私は知りたいだけなんです。
妹の知紗を名乗った何者かの存在を。
あの時私は九歳、知紗は七歳。外の玄関の扉を独力であけられる訳はない。
なのに、なぜ…

いや、そもそも母と知紗が身寄りの七周忌にいったあの日から、全ての運命はおかしくなっていたんです。
…、から、だから、探しているんです。
復讐のために!!』
『主よ、貴方は何故に、何故にこのような少女に重き苦痛の枷を敷こうとするのです…』




その夜の告白以来、紗映は不思議な程落ち着いた感情を保っていた。
たまに昼に目覚めては教壇の掃除に励み、定例期に礼拝するシスターとも談笑を交すようになっていた。
『…紗映。』
そこで一年前に知り合った北織美香と出会い、青華学院での一日礼拝に参加。
紗映はここでも新しい事実を知った。
『…ここは、私が。そんな偶然…って。』
二〇××年。東京都未里市青華学院一日礼拝特別講演演奏の集い。

低学年の部。三年・鈴木 紗映。

自分の過去の写真を見て涙が止まらなかった。その涙は懐かしみでも悲しみでもない、ただ紗映が知るのみの涙であった。
美香は微笑む。
『紗映。ここが貴方の居場所だったのよ。
だから、貴方はひとりじゃない。みんなが、そして私がいる。ね?』



七年の歳月を得て失ったもの。分かったもの。その全てを背負い生きる一人の少女。
『…なかなかいいお話じゃないか。
三流の芝居としてはなかなかの出来だとは思うぞ。』
『そして私は知ったのよ。貴方達虚栄の塔が元来、精神力の高い少年少女を匿っていたという話も。

知紗も、私もだから狙われていたのね。



…許さないから。
貴方だけは。』

紗映の瞳が淀んだ色彩を浮かべる。
『…よく辿り着けたものだ。
まさかこの私が君の伯父貴にあたる人間で
虚栄の塔に勧誘して失敗した部下の後始末をする羽目になるとは。
そして、虚栄の塔の勧誘から派生して鈴木家にもう一人の娘がいることがあろうとは…クックック。

残念だが、あれは君の妹本人なのだよ?』


紗映の瞳が律動する。
『セント・ホスピタリアで医療の傍ら、畜生道に目覚めたわけね。瀬名俊秀ドクター様。
私の母親と知紗の死亡診断書を書いた貴方がなぜそんなことを知っているのかと思っていたときに記憶が目覚めたわ。

…この身体が貴方を覚えていた。そして、父が最後に書いた手紙には貴方のことが…』

『案ずるな。それにもうすぐ一筆を添えてそれが君の遺言になるんだ。同情するよ。』
瀬名がじりじりと距離を詰めるように紗映を視線に捕らえ、歩み始めた。