贄雫

人気の無い凛とした予期せぬ静寂に包まれたセント・ホスピタリアにおいて対峙した晋子と紗映。
だが、二人を待っていたのは待ち望んでいた患者の姿では到底無かった。
乱れた髪をふりしきって紗映は眼前の白衣の男に睨み付けるような視線を浴びせる。
男は尚も、紗映を食い入る目付きでただ凝視していた。
『おばさま…
どうしてここに…』
『何でって、美奈と、美香の受け持っている生徒の見舞いにと思って私たちは…それが来てみたら人どころか蟻っ子一匹すらいないこの空気は何なのさ。』
紗映は沈んだ表情のまま晋子に事の真相を告げた。
『それは…至極当然です。なぜなら、今私たちがいるこの場所はセント・ホスピタリアではないのですから…』

晋子の表情が凍り付く。紗映はゆっくりと立ち上がる。
『話は後にしましょう。
この場所は今ものすごい瘴気に満ちている。今はここから離れて反撃の機会を待ちます。
もっとも私の体力がそこまで、持ってくれればの話ですが…』
紗映は、ゆるりと立ち上がった。
苦悶の表情を微かな笑みが隠し晋子に告げたまま、そのまま歩みを早めた。

『クックックッ
逃げられると思っているのか…
紗映とあの忌まわしい老婆はかならずこの場所を墓場にさせてやるわ…』



数分程歩き回ったところで紗映と晋子は入り口前の休憩所に腰を降ろした。

『ここがセント・ホスピタリアじゃないとは一体どういうことなんだい?』
『ここは、セント・ホスピタリアの外れ向かいにあるとある男の研究室です。
何者かの幻覚によって、私たちはいつのまにかこの場所へ誘い込まれた…というわけです。
しかし、あの男に他人の頭脳にけしかける幻覚をもたらす力があったとは考えにくい。おそらくは彼に付随する能力者が…

いや、今はまずはこの場所から抜け出すことを考えましょう。
ここがセント・ホスピタリアだと思い込まされている以上
私たちは奴等の術中なんですから…
そういえば、おばさまは美奈達を探していましたね。
彼女は、私にもわからない未知の強い清めの力がある。清めるべき力、いや、それはもっと尊くかなわないもの。
だから、彼女は虚栄の塔に狙われるべき運命…なの?』

『美奈だけじゃないよ。
一週間前の記事は紗映、あんたは知らないか…南も行方不明のままなんだよ。
唯も心配してる…
そしてこの混乱に満ちた状態を敵が直ぐ様狙ってくるかもしれんのだからね…

私はもはや差し違える覚悟だよ。そして、紗映、あんた一人に苦行を背負わせるわけにはいかないんだよ。』
紗映の瞳は長く乱れた前髪に虚ろに隠れその表情は見えない。だが、晋子の言葉からは何かを感じ取っていた。
『…触媒。
それには強い力を持ち、清められた肉体が必要。

清められた肉体…』
紗映の思念が過る。
『紗映、美奈がまだセント・ホスピタリアにいるのなら一度戻るべきじゃないのかい…?
私から見てもあんたの今の体は今にも倒れそうじゃないか…ここは私が食い止めてやるよ。
四方ふさがりなこの状況だからこそ動かねばなるまい。』
『そうですね。
でもそれはここを無傷で脱出できたらの話です、それに私にはここへ来る目的があったから。
…そして、願わくば全てのかたきを討てるのならばと願っていたけど。


…盗み聞きするなんて相変わらずの下卑な行為ね。

この病院に潜伏した理由の全てを知っている私をここで始末したかったのよね。知ってるのよ。

…貴方をみるとこの虚空の瞳がうずきだすんだから…ッ!』
『理解していたのか。
vanity様が施した幻覚にかかるフリをしてこの私をここにおびき寄せたとでも言いたいのか。雌犬め。
貴様は早夜の時もこの私の邪魔をした。
その代償、しっかりとお前の肉体で贖ってもらおうか…!』

どこからともなく血とむせ返るような酸の臭いが霧のように空間を包み込む。
『…きっと後悔するだろう。お前たちはWALD LITTERを敵にした自分の運命を。』