閉幕は藻屑の中に

『ワタシは、貴方をうるおす海のような存在でいたかった。
貴方が疲れた時にふと目を上げたら、そこに見える海のように、なだらかで、なめらかで。
ワタシは、貴方を照らす道になりたかった。貴方がひとつひとつを、ゆっくり踏みしめていけるやわらかい未来へ歩みだせるように。
誰かに押してもらうことで出せる勇気がある。
ワタシは、貴方の勇気になりたかった。』








初冬から晩冬へと向かう冷たい風が海岸沿いに吹き荒んでいた。
足音は次第に近づいていた。軽く、細々しい足音。まるで、この場所に現われるのを待ち望んでいたかのように、海岸沿いの波止場に近い鉄状の椅子代わりの柱に、季樹は腰かけていた。
ふと、昨日の記憶が彼女の脳裏にぼんやりと蘇る。
それは、春先、桜舞い散る四月の朝に、二人馴染みの喫茶店のテラスで珈琲をたしなむ男女の姿。
…彼女が夢見ていた未来、そのものであった。
『…季樹君。』
か細い、しかし聞き慣れた心地の良い少女の声が海にこだまする。
だが、眼前にたちくらむその青年からは反応がない。いや、むしろ気配という表象を全て取りのぞいた脱け殻にも近い状態であった。さらに、季樹のほうに一歩、歩み寄ろうとする。
『…だめ、これ以上は、みれない…』

南は、その場にうずくまった。
その姿に食い入るように、季樹がわずかの反応をみせる。
『…受験票。
もってきてくれたんだね。』
『でも、もう、ぼくにはひつようのないものなんだ。なぜならば…』


季樹は生気のない表情を抱いたまま、ゆるやかに立ち上がり、一歩、二歩、視線の奥の海へと歩み始める。『‥…っ!』
とっさに南が自分の身体で季樹をささえ、今にもその身を外海へと投げようとする季樹を食い止めた。
『なんで、とめるんだよ……
君は、君は僕をこの世から消したいんだろう!!!わかってるんだよ。君は…
尋常ではない、人外の魔女なんだということが…!』突然の一言だった。
それはどんな刄よりも鋭く、切れない心を引き裂いた
南の表情は瞬時に何かに怯えた子供のように醜く歪む。
その表情が季樹に陰なる確信のようなものを裏付け、一歩、さらに後ずさる。
『く、くるなぁっ…!うわああぁっ!』
季樹が悲鳴にも似た嬌声をあげる。それが止むと同時に、季樹の身体はその場にへたりこんだ。
沈黙が二人と、二人を包む場所を染める。
南は、微かに伝う涙を拭うことも叶わず、その場をただ消えるように去ろうとした。
…逃げることではない。
そう自分に言い聞かせるしかなかった。
信じてもらえないのなら、自分が消えるしかないと。
それで、いつか二人がまた出会うことが叶うのならば。

『さよなら…季樹君…』
その時であった。
南が振り向きざまに帰路を踏みしめた矢先、南の白い首筋に二本の痙攣した青白い手が忍び寄った。
『ぐうっ…!!』
背後から唾液を噛み締める音と過呼吸の交じった荒い息がぜひ、ぜひと不気味な旋律を立てていた。
その細腕は獲物を狙う大蛇の如く、南の首筋にみしみしと膂力を加える。
『あぁぁっ…と、し、き…っっ!』
『だまされるものか…魔女め…悪魔のしもべの分際で‥はぁ、はぁ、はぁ…
きみは僕を、この世界から邪魔者である僕を消そうとしているんだよね…



だけど、僕は簡単には殺されないよ…
あの聖書が僕に力を、くれたんだから…
だから、逆にきみを殺してやるんだ…ぁぁっ!!』

季樹の腕の力がさらにぎしぎしと増していく。それは外見からはまるで想像のできない増幅された腕力であった。
『くっ…う…』
南の意識が朦朧としたものへと落下していく。
『…はぁ、はぁ。』




ばたりと、南は背後の季樹に身体を預けるように力の支えを失い昏倒する。
『月‥島‥さん。』
首筋にかけた強い物理的な力が余り余って南の上着のローブを半ば破り裂いていた。
白く人形のように透き通る肌をただ凝視し、季樹は何かに飢えた衝動のようなものを肌で感じとっていた。
『はぁ…はぁ…』
そっと肌に手をかける。
心臓に近い胸元。
鼓動を感じる。彼女は未だ気絶しているだけなのだろう。

『まだ、…彼女は、普通の人間じゃないんだ、だ、から‥はぁ、はぁ、…』

季樹はその刹那、一つ前の、一日前とも、二日前ともわからない記憶を呼び覚ましていた。
『…綺麗な瞳。
純粋な…想い。
私には、…ないもの。

こうして、感じているとわかるのね。
報われない想いだけが、ひとりぼっちになるのは、さみしいね…』


静寂。それは何物にも代えがたい静寂。
彼女は知っていた。
その想いの在処を。
だが、誤った想いは過ぎた記憶を遡り行き場を失い、移ろう魂のようにさまよう焚き火でしかない。

南に、不信を抱いたその刹那が

燻りの消える時であった。否、それは不信とは言い難いものかもしれない。
想いは、時に不信をも引き込む。

だが、その心の強さを保てるすべが季樹には無かった。
南の肌に添うように右手を重ねる。
すると、南はその右手をまるで季樹の手であるかのように反応し、握り返してきた。







やがて自分の右手が麻痺し、自分のものでなくなっていくかのような感覚が訪れる。
自分の存在も、記憶も、すべて凍り付く冷たい棺の奥底へとしまいやられていくような感覚であった。

『………』







『姉さん…
姉さん、どこにいるの?
私、どうやったら、自分のことを、
好きになってもらえるの?
教えて…教えてよぉ…』









夜明け前、朝の散歩に通り掛かった海岸通り沿いの老父によってある一つの通報がなされた。

『波止場で、若い男の死体?』

『ガイ者の状態は?‥な、なんだって?』
『何です。この通報は。朝っぱらからまたいつもの悪戯ではあるまいな。』
その戯れの一言も次の言葉を聞いた瞬間、その場の管轄にいた人間の全てが声を失い沈黙した。
『全身が、ドライアイスみたいに凍り付いた状態で、遺体の心臓は生きたまま心臓発作のようにとまって、いた…?

バカな…しかも、被害者はあの堀財閥の…
いったい、この街に何が起ころうとしているんだ…』

『署長、その老父に聞いた話によるとですが、その昨夜にいた目撃者の話について…』

『11年前だ…
11年前の世界が、また今この現実に再び舞い戻ってきているかのようだ…』
署長は無線を聞いた後、ぽつりと呟き、署長室の奥へと消えた。