サトリの法

『百合の聖書に込められた残留思念…
サトリの法で…』
心を無と同化させる。
瞳をそっと閉じ、百合の聖書の背表紙に手を触れる。するとどこからとまなく百合の花の幻影に伴って南の脳裏に一つのイメージが浮かぶ。
『季樹君…』

季樹の姿が記憶に蘇る。その背後に一人の青年らしき男の姿が見えるが、記憶に黒いもやがかかったように視界に映らない。
『その先に…いるのは…?』
黒いもやのようなものを辿り、さらに精神を集中させて百合の聖書に残った残り香を探る。
そして、時間にして数分といった時が経過した後、やがて次第にもやは霧散されるように散っていく。そこに見覚えのある学生服の姿が見える。

『学校…ここは、青華学院の…』
南は何かを確信するように歩みを早めた。


『この学校も、私の予感が正しかったら…
礼拝堂のあの事件、あれは…』
だが、今は考えるのをやめた。
少しばかり、自分のことも、姉のことも片隅に仕舞い込んで、彼の、…こうなってしまった彼の真実を知りたかった。

サトリの法で辿った場所は校舎の外のはずれにある鉄扉の向こうを差していた。この学院の校舎は旧校舎と新校舎側に別れており、新校舎側の礼拝堂の建設にともない旧校舎は閉鎖されることになり、半年程の間、部外者は出入り禁止となっている。
この鉄柵は扉は旧校舎への道と続く唯一の移動手段となっていた。

ゆっくりと鉄柵を開こうとするが当然の如く施錠されて動かない。
南は一瞬、力を行使してその柵を破壊しようと考えた。
すると、背後からカツ、カツと一人の冷たい足音がする。

その気配は限りなく無に近い。だが、確実に南に近づいてくる様子が見てとれた。

『誰…?』
夜の更け静まったこの場所に一人、闇をかきわけるようにその男は南に緩やかに接近する。
『とうとうこの場所にあるものまで知られてしまったようだ。

だけれども、俺たちの計画に一寸の狂いもないんだけどね。
そろそろ、目障りになって来たよ。きみのことが。』
『市川、君。貴方は…』
だがその先を考えるのは不毛であった。
言葉の行間に幾分の狂気が滲み、その瞳には明らかに南を蔑む意志が込められていた。
『ようやく見つけたんだよ。自分の想う人間を永遠のものにする方法をね。』
まるで念次の意志とは無関係に闇の奥底から違う意志としてその声は聞こえてきた。
『…と、言うわけで、月島さん。君にはもっとも縁深い身内の彼女に惨殺されてもらうことにしたよ。
そして、彼女も俺がもらう。くっくっくっ…』

直後、南は背後に、身震いする程の狂気を感じた。
『みなと…なんで、貴方が…まさか、この百合の聖書が…』
そこには、探し求めるもう一人の少女の姿があった。
『ヒトの心は脆い。
だから弱い心はすぐに意志を失い、何かにその魂を委ねる。
南…心が凍っている君にはそれはわかるまいよ…、』
百合の聖書。
これが元凶…なのか。
『君の力は、きっとこの場所を嗅ぎつけると思っていたよ。残念だったね。
季樹を目の前でバラバラにして君に見せ付けてから殺してもよかったのに、
さすがにそこまでは俺の良心も痛むみたいだ。』
『…
コロス…』
湊の表情は全く読めない。あの時、南にけしかけたかのような淀んだ瞳だけがただ南を縛り付けるように凝視する。

『みんな、貴方がこの聖書を使って洗脳したの?この本はいったい何…なぜこんなものが…』

『この聖書には
人間の潜在的な精神力を極限まで引き出す法術が仕組まれている。すべてはあの御方の力によりなせる奇跡。
その法術から解放されると恐るべき力と生命力をみなぎらせる源が手に入る。だが、限界を超えて肉体を崩壊させてしまうと、伊達しかり、季樹しかり、あの通りだ。

そして、この自分は想いを永遠にするための道を得る…
奴らはその計画の捨て石にしかすぎないからね。』

もはや南は眼前の男が何を語っているのかさえ理解する気にすら起きなかった。ただ、眼前に映る一人の男の姿を強く、冷酷に憎むだけの心を宿した自分がいた。