虚構に舞う百合・3

【念次がその本を自分に託して、早一週間が経過しようとしていた。】
託されてからの数日は、何かと煩雑な日々の生活に悩まされ、また、受験の日も刻一刻と迫っていたこともありふとした契機でその本を眺める機会は無かった。
表紙には純白な百合をモチーフに書かれた薄いタッチの絵があり、そこから左をめくりかえすとその本のページは開かれた。
まるで、聖書のような教典にも似た静粛なる雰囲気が本の中から漂う。
『人が、何を求め、何処へ向かうのかを定める道標とは、
その者のただ無垢で純粋な汚れのなき魂から出ずる。
例えば、自分の叡智に溺れず、他者の無知なるものをみさげず、おもんばかる心
それらの心があれば、新たなる道を照らすことも叶おう。


この書には術がこめられており、その照らす道を正しくあるべきものとして存在する糸となるものである。心を白い静寂に委ね、自らの魂に一なる鐘を鳴らすことが叶えば‥
必ずや歪んだ世界の摂理さえも超越し自らの願いで到達する場所へと通ず。』



最近学校に南の姿は見えない。
無論、あの叔父的存在の男性の店を手伝わないといけない義務もあるのだろうが、ただ自分の眼前に、自分の視界に存在しないことがまるで自分を避けているかのようにも季樹には感じられた。
市川の姿も見えない。
あの本を自分に託したきりその行方をくらませたままであった。


そして、その翌翌日。東京都内某有名私立大学入試の当日。
青華学院の生徒を点呼する役目で一早く大学構内に姿を出していた美香であったが、その日の入試開始時刻はおろか午後になっても当の推薦入試の該当者、堀季樹が現われることはなかった。


美香が季樹の行方を知ったのは、突如その日の夜にかかってきた非通知設定からの電話であった。
『うちの生徒が… さっき学内に電話があったんだ。うちの生徒が青華学院構内屋上で倒れているところを清掃員が発見した、清掃員が緊急連絡網から都内の労災病院に運んだ。すぐに北織君、様子をうかがってくるんだな。』

電話の主は教頭からのものであった。美香の脳裏に最悪のイメージが表層化される。
美香はすぐさま教頭の伝言に沿って都内の労災病院へとむかった。
『…あれは?』


あの漆黒の薄いコート。その少女の姿の正体はただ一つであった。
『南…!どうしてここに…?』

当の南は美香の気配に気付いていないのか、見てみぬふりをしていたのか美香の姿を注視することなく病室の奥へと消えていった。

『季樹君…』
南の薄く白い手が季樹の顔にわずかに触れる。
季樹の顔はうっすらと薄紫色に肌が色ばんでおり、明らかに常人の健康状態ではありえなかった。

屋上で運ばれた時にはここまでの状態ではなく病院に運ばれて皮膚の悪化が更に増したらしい。
『堀財閥の一人息子だ。こんな小さな病院で何か小さな掛け違えがあったら致命的だ。すぐにあちらの病院に転送するように手配をしろ。』
その場にいた医師達は困惑の色を隠せずにいた。
南は病室の床にぽつんと置いてあったカバンに目をやる。そこには受験票と一冊の聖書にも似た百合の表紙をした本が入っていた。
『なんで…どうして、こんなことに…』



心は通えないよ。
君の心は凍っているんだ。止まり凍てついた心に、人間が通いつうじることなどできるわけないじゃない。



『やめてぇっっっ!』
南が病室の虚空に向かって切実なる叫びを放った。