虚構に舞う百合・1

喫茶siestaの街角、何時もの変わらぬ定時に店を開けようとした矢先、片桐は入り口にぽつんとたたずむ一人の少女を見つける。
『南?』
南は、そっと何かをつぶやいた。きっと、叔父さん‥とぼそりとつぶやいたのであろう。しかしその声色は余りにも脆弱であった。
『…力、能力なんて、こんなもの、欲しくはなかった…だから‥』
片桐が出した珈琲にも全く手をつけようとしない。
そういえば、今日は平日で学校はどうしたものかと片桐は南に問いかけたかったが、それも今はかなわぬ状況であった。
『‥南、悩み、迷う自分を恥じることはない。

完璧な人間なぞ存在しえない。
人は神様じゃないからな。
だから、時に迷い、悩み、何かに心を乱されることは決して無駄ではないとワシは思う。
若人の特権よ。
…明日はできたら店を手伝ってくれよ。』

南のうつむいた横顔が軽く、片桐になびくのを感じた。

南は軽く外の景色を眺めながら、siestaの入り口のドアノブに手をかけようとする。
だが、彼女がドアノブに手をかける瞬間、先に扉は開かれた。
『あ‥』
南は思わず小さな声を洩らす。
外の扉の向こうで顔をのぞかせたのは、堀季樹であった。
『月島さん…!
よかった。あれから全然お話というか会う機会もなかったので、探していた‥あ、まぁそんな感じだったので。そのうちお店でふと会えないかなと思っていたんですよ。』
『‥月島さん?』
季樹の無垢な表情と裏腹に、南の表情は重い。
まるで、何かに怯えているような子供のような切なさがいとおしくも見える。
一瞬の沈黙を縫って、制服姿の季樹がそっと南に語りかける。
『何か‥あったの?』

南は、その問いには答えずにそっとドアノブに手をかけて歩みを早める。
季樹もたまらず、南の後を追うように小走りした。


南の後を見守るような仕草で季樹は後を歩く。
南がふと自販機の前で立ち止まる。

『…今日は肌寒いみたいだね。』
『えっ?そ、そうだね‥くしゅんっ!』
季樹が風に鼻をくすぐられ思わずくしゃみをする。
それより気になったのは南の言葉であった。
『…今日は12月の中でも特に冷え込むといってたのに、あんな薄着で寒くないのかな‥』
思わずそんな思考が頭をよぎる。
『…飲む?』
南がいつのまにか缶コーヒーを2本手にしていた。季樹に振り向きざまにその1本を軽く投げるように渡す。
『…ありがとう。』
手に取ったコーヒーは薄いブラウンカラーのペイントに包まれた甘口のミルクいりコーヒーであった。
季樹の口に強い甘味が広がる。
慣れていないとなかなか飲みにくい味ではあった。
『口にあわなかった?』
『う、ううん。そんなことないよ!…うん…』


『月島さんは…』
その先の言葉が言えない。だが、その場にいる南をただ凝視すると時が止まったような錯覚を受ける。
沈黙を解いたのは、南のほうであった。
『人は、俗に三つの顔をもつと言われているのよね‥自分が知る自分、他人がしる自分。そして…
心の奥底に眠る本当の自分…
本当の自分は…私は…』

南の表情が何かに歪む。
悲しみにも似た何か。それは…彼女自身がただ知る感情であった。
『月島さん!』

『私、そろそろ疲れてきちゃったのかもしれないなぁ…
受験、頑張ってね…』

季樹がうつむく。
目の前に想う人は確かに、いる。
春の街角で、願わくばもう一度彼女と出会えたらと思った。
悲しみに暮れる前にただ一つだけかなえたい想い。
『でも、誰かを好きになると言う気持ちを、持つだけじゃだめなんだ…ただ、もってるだけじゃ…ただ…』
切に願う。
君の本当の自分をしりたい。
ただ、それを切に願う。

『…本当の自分も、私だから…だから‥』
季樹の瞳に迷いは感じられなかった。
何かを信じ、純粋な正しくあろうとする心の純白さがあった。
『…ごめんなさい。』

拒絶。
いや、違う。そうではない。
『これは、“サトリの法”…と呼ばれる力。
人の心の奥に眠る地脈に共鳴することができるの。私と、姉さんだけが持っている特殊な力。
もう一つの力と対をなす力。
だから、私にはあの子の正体が…』
『月島さん…!』


『季樹君。
また、会える時がきたらsiestaで会おうね。
今度は、私がコーヒーを…』

南の姿は冬の冷たいつむじ風と共にいつのまにか消失するように去っていた。