銀の雪・2

美香はどこか途方に暮れた表情で職員室の外を見つめる。
『‥先生?』
先程紗映の外をふと通りすがった一人の少年がいた。紗映は、どこかで彼の存在を見たことがあるような気がした。
『顔色がどこか優れないですね。先生。
今朝の花壇の一件を気にされているんですか?』
『市川君から聞いたわ。
朝に自分が来た時はもう花壇はあの有様だったそうね。
さて、どうしたものかしら‥
唯が悲痛な表情をしていたわ。』

『そうですか‥』
紗映には何か別の思考が働いているようであった。
『これからどこに?』
『間食ですよ。
お昼すぎは私甘いものを食べないと身体が動かないんで。』
紗映は軽く笑いながら、職員室を後にした。







今日はsiestaの外の街道はやけに人通りが少なく静寂を保っていた。
どこか初冬にも似た静かな新しい季節の訪れを予期しているかのようであった。
『さて、今日は南もいないことだし、そろそろ店をたたむ準備を、ん?い、いらっしゃ‥?』
片桐が奥の厨房から中のカウンターへと戻るとそこには黒の上下の私服姿の紗映の姿があった。
『こ、こんにちは‥』

片桐は物珍しい表情で紗映を一瞬見つめた。
紗映はそそくさと店のメニューを眺めて、興味深そうにまじまじと見つめている。
『何か古風なお店ですね。昔から、ひっそりとたたずむ隠れ家みたいで。』
『‥ぐほっ、何か嫌味に聞こえなくもないのは気のせいかな?
いまどきの若いムスメは‥あぁ、やめたやめた。そんな事を言うとまた南に余計にしわが増えるよなんてアヤをつけられるに決まっとるんだ。まったく。』
一人で話をすすめていく片桐に思わず笑みがこぼれる。
紗映は冷たい紅茶と今日の日替わりらしいケーキを注文した。
片桐はわずか数分で紅茶とケーキを紗映のテーブルに運んだ。
『いい店ですね。』
『その通り、紅茶は特別にワシの昔の知己から輸入して仕入れてもらってるものをだな‥』
『いえ、この鉢植えのお花がですよ。』
次の瞬間、片桐は腰が抜けるような態勢でその場に滑り落ちた。

約三十分後、南が唯と一緒に閉店間際のsiestaを訪れた。
ちょうど店の外から一人の少女が本を読みながら片桐と談話しているのが見て取れた。
『あの人‥』
唯が軽く顔をのぞかせる。南に耳打ちするようにその少女の正体を伝えた。

『ただいま。』
南の一声に片桐が反応する。紗映も軽く視線だけを南の元に向けた。
『どうも‥お初にお目にかかります。月島さん。
私、しばらく学校から離れていたもので、なかなか他の生徒と交遊するきっかけも、なかったので‥』
『何だ、南。来たのか。今日はそのまま晋子の館に戻ったのかと思ったが‥
めずらしいお客さまだよ。今日はな。』

『月島さん、ちょっと貴方とお話がしたくて待っていたんです。
少し、外の風に当たりませんか?』
『ちょっと待ってよ。
さっきまで色々外にでかけてきてもう私はクタクタだって言うのに、いきなり‥』
当の南は困惑とした表情を隠せない。
だが、紗映はまるで南がついてきてくれることを待ち望んでいるかのように、一人そそくさとsiestaを後にした。
『おじさん、ケーキありがとう!』
机の上に花柄の磁石で止められた千円札がひっそりと置いてあった。



夜風が肌に染みる十二月。そういえば何時の間にか今年の秋は足早に過ぎてしまった印象がある。
siestaを新宿方面の通り沿いに歩くと見える陸橋には薄く湿ったような白い霧が立ちこめていた。
『イズミの‥
そして、貴方の大切な人の敵をうつ為に、
月島さん、貴方の力を‥』『なんで、貴方が‥』
唯は手前にたたずむ二人の姿を心配そうに見ている。
『この何気ない平穏がもうすぐ壊れてしまう。
私は、それを止めないといけない‥それが、自分の運命‥』
その瞳に汚れはない。
己が意志を強く秘めた瞳そのものであった。
『‥だからといって、私に今すぐ何をさせようと。
私に、何が出来るの‥私に‥』
『組織は、
貴方を狙いにきますよ。
貴方の力を求めて。
だから、そうなる前に‥』
『もう、いい‥
今、そんな話しないで‥
やめて‥もう普通の暮らしに戻りたい、私‥だって‥』

『南っ!』
南が紗映の身体を押し退けるように突き進み、通りの奥へと走って行く。
『……ごめんなさい。』
紗映は、一人残された唯に申し訳なさそうな表情でその場を離れた。








『‥南?いったい何が‥』
晋子の声にも耳を貸さず、南は館の部屋へと一人こもってしまった。

館の入り口の電話が無造作に鳴り響く、晋子が電話を取った。
『はい、朝比奈‥ん?あんた、その声は、湊ちゃんかい?
なつかしいねぇ。もう東京に戻ってきてたのかい、あぁ、南なら二階にいるよ、ただちょっとご機嫌斜めでね今は‥待っておくれ。』
『南!湊ちゃんから電話だよ!』
堂島湊。
南より3歳年下の高校一年年生である。月島家とは遠い親戚にあたる。月島家の法事にも湊は両親と出席し、晋子とも面識があった。
南がこの街に引っ越す直前の頃、湊の両親が1年ほど海外に出張にでかけていた事を折に湊も同じく両親の元にいた。
そして、一週間前程晋子の元に電話が入っていたものの、晋子はたまたま席を外していた。
そのような経緯で今に至る訳であるが。


『明日か、私はちょっと用事で街外れに出かけないといけないんだが、南なら空いてるはず‥』


晋子は南に事の旨を伝えた。最初はうつむき気味の南であったが、やがて明るい表情を取り戻して晋子にうなずく。
『おばさんは?』
『ちょっと明日は野暮用で出かけてくる。
湊ちゃんによろしく伝えてあげておいてくれ。
あとは‥
気をつけるんだよ。南。』
『そうね。お互い様ね。』『なるべくなら、湊ちゃんの前で、南、無闇に力を使わないように配慮してやりな。万が一、でなければね‥』
『わかってる。じゃあ、おやすみなさい。』



翌日。都内某所にて。
一年ぶりに南は湊と再会した。
『南ねえさん!』
『湊!こっちこっち!わぁ、背が伸びたのね。湊。』
湊はショートカットの黒髪に白色のワンピースに黒の上着を羽織っていた。
どこか1年前よりわずかながら大人びた印象も受けた。
『南ねえさんもあいかわらず、髪のばしましたね!
元気そうでなによりですよ。』

『元気‥ねぇ、湊がそうみえるんなら大丈夫かな?』『どうかしたんですか?』
『いやいや、何でもないのよ、こっちの話。さぁて、今日は比較的外も暖かいしどこかゆっくり買い物とかできそうね。』
南は歩幅を早めて都心への通りへと赴く。



『ねえさん‥?』
『ん、なぁに、南?』
『もう、また私の話きいてなかったでしょ、姉さんったら‥』
『そ、そんなことはないわよ?何よ、湊ったら‥』

ふとした走馬灯のような記憶。
あの会話は、一日前のように、十年前のようにも思える。
『南ねえさん?もう、どこむいてるんですか?』

都心から少し南側に、海岸公園で南と湊はたたずみながら会話を重ねる。
『昔話‥?ま、思い出していただけ。姉さんのこと。なんか、湊に姉さんって呼ばれたらそんなこと思い出しちゃってね。』

『そうなんですかぁ。
私はひとりっ子でしたからやっぱりおねえさんって言葉には憧れますよね。』
湊が少しはにかんだ表情で南にささやきかける。

『‥ねえさん、か。』
『いつも妹はおねえさんにかまってほしいものなんですよ。それは、親子でもない、恋人でもない違う絆。だから深くて、壊れない。そう、それだけは‥』
『そうね‥さて、そろそろ戻る?』
湊は一瞬顔をアスファルトに沈めるようにうつむかせる。
『葵姉さん、私がきっと‥』





『葵、ねえさん?』
−南ねえさん、今なんて言ったんですか−
無機質な機械のような感情の欠けらさえもない言葉が、突然、背後からつぶやくように聞こえた。
不意に、南の携帯電話に晋子の着信音が鳴る。
『南‥‥‥っっ! 湊は、湊の両親は‥!!!みなみ‥』
南が携帯を取ろうとした瞬間、見えない何かによってはり付けられるように腕の力を食い止められ、南は床のアスファルトに携帯電話を落とした。
『‥話を続けなさいよ。』
『な、なにを、何を言っているの‥湊っ!』
次の瞬間、何かに爆炸するように南の携帯が宙に弾けるように落ちた。
その背後には、まるで何かに心を奪われたかのように能面のような無機質な表情で南を凝視する一人の少女の姿があった。