銀の雪・1

『紗映。お前は自分の信念をもって生きるのだ。
よいな、紗映、惑わされるな。踊らされるな。
…ただ、自分だけを信じ、さすれば、その先にやがて光さえ見えることも叶おう。』


父の最後に残した言葉だった。
物心がついた時には、自分は家族というものがいた。確かにそれはささやかで、小さく、それでいてかけがえのないものだった。

『紗映を、教会に、馬鹿な…今になって、なぜ‥』
父と、見知らぬ壮年の男の会話の声が聞こえる。
『主のご教示です。それとも、何か、自分の娘を清めることに何か不満でもおありか。』
『組織は、いったい何をしようとしているのだ‥』
『それを知ってどうする。』
『‥‥‥』
沈黙が空間を支配する。
『虚栄の塔の、恐ろしさを貴方はわかっていないのだ‥』
その言葉はやがて現実のものなって災いをこの世界へともたらした。




紗映の教会での、清めが完遂した一週間後の出来事であった。
『パパ…ママ‥?
どこにいったの‥?』
神隠し。
否、それにもっとも近くそうではない行為。
自分のまわりの世界がまるで断絶されるようにすべての糸は断たれていた後であった。
『紗映。‥この手紙を見る頃には私はきっと、お前の元にいない。
やがて、‥やがてだ。お前が全てを理解した時、この私の行方も、お前を一人にした理由も全てがわかるときが来る。
…生きろ。紗映。
愛しき我がただ一人の娘よ。』

『…イズミ、先生。貴方もやっぱり私と同じさだめを受けてきたのね。
虚ろなるのを、滅する。…パパの、そして、私の大切な人の敵を‥』

『辞世の句はそこまでか?』
不意にまがまがしい夜を切り裂く不気味な男の声がする。
『悟れ。この歪み行く世界はもはやお前一人ではどうすることもできない。
…あきらめるのだな‥』
『だとしたら、私はイズミの墓前でなんて言い訳すればいい?
‥私だけのうのうと生き抜いてごめんなさいとでも、言えばいいって言うのか!』

声は無散していた。いや、それももはや幻覚の一つにすぎなかったのかもしれないが。
『世界を…
vanity、貴方の思い通りにさせてなるものか…
パパは、ママは私を守ってくれたのに‥』

そして、町外れの名も無き教会に戻った紗映は顔見知りの神父に一礼し、制服を脱ぎ一歩、歩み出る。
小柄ながらに10代の艶とみずみずしさを宿した肉体は一辺の汚れも見えない。まるで使われていない人形のように整然とした色白さを保っていた。
神父は無言で紗映に礼拝の間から取り出した黒のローブ状の上下の衣服を紗映に取り出した。

『紗映か‥』
どこか、荘厳な雰囲気を保った神父は表情を軽く歪めて紗映に語り掛ける。
『私と同じ運命の生を生きた“仲間”が二人もいたなんて、どんな偶然なんでしょう。
やはり、これは私に神の摂理から“鍵”を完遂させるのを止めなければならないと言うことなのでしょうか‥?』
『誰かが歪なるかの欲望に満ちた儀式を止めなければならない事はわかっておる。だが、紗映、おまえは一人で何故に‥』
『その鍵となり、何もわからぬまま犠牲にされるほうがあまりにも不幸だとは思いませんか‥
決して、仮初めの術法は人の生命の理を覆すことなどできないというのに。』



神父は紗映に軽く歩み寄る。まるで全ての些末な汚れを許せてしまいそうな潔白さに満ちていた。
『‥もし、自分のもっとも大切な者があとわずかで天に召されるとしてしまったら、紗映、お前は何とする?』
『それは正解などない命題だ。
いや、解すらのない、人を永劫苦しめる呪縛なのだ。若い命を散らすことにははかない‥そして、潔くもある。
そして、その記憶はいつしか後に受け継ぐ者に宿り、記憶となり、業となる。紗映、そして、彼女達とお前の両親もな‥

本来ならば、鍵となる少女が仮初めの力で転生し、全ての世界は元に回帰するはずであった。だが、奴は、そうではない何かを企んでいた。』

『鍵となる子を、私が守れば‥それで、敵となりゆる者を全て私が息の根を止める。それでいいのではないでしょうか‥』
『愚か者が‥』

神父、東郷の怒りの眼(まなこ)が紗映に向かって投げられた。
『そのように動けて事がおわるのなら始めから何もかもが解決している。
鍵の行方を探さぬことには終わりは訪れぬ。』
『そして、仮初めの術法の儀式の完遂には
邪眼の能力を持った人間が触媒となる。かの者を奴等の手中に入れてはならぬ‥』
『しかし、もはや組織は動いていた‥あとはなるべくして鍵の正体を敵に悟られぬようこちらが行動するしかないのだ‥』
『大丈夫です。私には清めの力があります。
かならず学園に戻って、私は目的を遂行してきます。大切な守るべき人のために。』



紗映は、そっと教会を後にした。
一人、新月の暗夜を教会の天窓から眺め、東郷は耽る。
『月日は、少女をも変えるか‥見ているか‥君の娘は、こんなにも‥』







粉微塵になった哀れな花壇を刮目し、紗映は唯を凝視する。
半ば放心としていた唯を余所目に、紗映は花壇の花の残骸を軽く砂をかきはらい揃えていた。
『貴方が、我孫子さんね。イズミからだいたいのお話は聞いてるわ。
月島さんに、会いたいんだけど、だめかしら‥?』
『南に? それとこれと何の関係があるの?あなた、南をもしかして疑ってるの?』
紗映の表情はどこか硬い。しかしそれは決して唯を敵対しているものではなかった。
紗映は誤解を解くように話を続ける。

『ううん。それは私の個人的なこと。
これはおそらくはこの学校にいる人間の仕業よ。それも、私や貴方や、月島さんのことを“知っている”存在のね‥!』
『何で、それを‥』
『心配しないで。私は貴方たちの仲間だから。
イズミをひとりぼっちにさせたのは、全部私のせい。でも、仕方なかった‥私にはやるべきことがあったから‥』
『‥そう。貴方にも事情があるみたいなのね。でも、お礼なら美奈にいってあげて。あの子が傷心状態のイズミを、ずっと身を削ってかまってあげていたんだから。』
美奈、‥?
紗映の瞳が細く何かに反応したようにぴくっと動いた。
『‥わかったわ。』

その放課後、紗映は美香の待つ職員室へと向かった。