その右手に握るものは

時期はやがて薄暗く冷たい闇夜を待つ冬が眼前に近づこうとしていた。

美香は安い酒を呷り、まるで泥のようにうつむいて眠りに就いていた。
意識を僅かながらに取り戻し、晋子の自宅に電話をかける。だが、数秒間の機械的なコールが虚しく鳴り響く中、美香は携帯を切った。
今時留守番電話機能もついていない黒電話な故、晋子の外出時は呆れるほどに捕まえにくい。

『しょうがないな‥書類は直接、館までいくしかないか‥』

美香はバーを抜け深夜の歌舞伎町の界隈を抜けた。
至る所の無整備の通路に水溜まりが出来ている。
おそらくは数日前の雨でできたものなのだろう。迂闊に足を踏み入れるとハイヒールではバランスを崩しかねないほどの悪い足場であった。
『バシャッ‥!』
『くっ!』
その不安の矢先、美香は水溜まりの先で足を滑らせ大きく転倒した。
だが、何かがおかしい。水溜まりに足をとられたのではなくまるで見えない何かに足を引っ張られるような不可思議な感触であった。『これは‥』
思考する猶予はなかった。気配がする。
魔の瘴気を孕んだ何かが自分を狙っていることに察知する。
美香はすぐに身体を起こして反転したまま夜の帳を駆けた。
『‥おかしい。あの夜からずっと考えていたことが現実に…
怜奈は、一葉はもともと一人の存在であって‥』
失った記憶の欠けらを呼び起こす。しかしそれにはきっかけとなる何かが必要なのであった。
『そして、貴方はそれを知らぬまま死んでゆく。
‥塔のために、よく戦ってくれたね。一つの哀れな人形として。』
また、あの声が不協和音となって大気のノイズと共に脳裏に直接響き渡る。
『‥行き止まり?誘導されていた、まさか…怜奈は、ここに‥』
まるで自分の意志とは無関係に走らされていたような状態であった。
背後から得体の知れない人間の気配がする。
怜奈がけしかけた組織の操り人形と化した信者の群れなのか。それとも‥
美香の手首に装着された護符が共鳴する。

その瞬間、人影は不気味なうなり声をあげて美香に襲い掛かってきた。
『先生!こっちに!』
刹那に一人の少女のかけ声が響く。それは幻覚などではなくまぎれもなく少女の肉声だった。
『‥!?』
半ば少女の声に導かれるように影を拭って美香は直進する。

魔の瘴気に包まれた影は美香の意志の力で無散した。
しばし街を駆けた後、美香は少女の正体を明かされた。
『あなた‥紗映‥!いったい、今までどこに‥』
『間に合った‥先生の気配を感じたからいちかばちかで私の力で気配を探っていました。
無事でよかった‥』
紗映の漆黒の艶を見せる私服の下に、包帯が見える。髪型は相変わらず片目を隠蔽するように黒のストレートのショートレイヤーでまとめられていた。
『あれは、‥さっきの人影の正体は‥』
『あれは、術者が繰り出した幻影、でもあれは間違いなく先生をけしかけようとしていましたね。』
『組織にとって、もういらなくなった私を消すために‥なの?』
『先生‥その答えは、もうわかります。』