泡沫の海

伊達の死から早一ヵ月が過ぎようとしていた。
数多多くの生徒達は先月の青華祭の悲劇をやがて思い起こすかもわからぬ過去のものへとしまい込もうとしていた。
学園の前に連なる坂道から一組のグループの会話が伝わってくる。
『あの子、本当に伊達先生のことを…?』
『それで、まわりから追い込まれ始めて逃げ場を無くした伊達先生が、苦慮の末自殺を計って‥
それで、須藤さんまで?』
『何でも、これは噂‥
伊達先生の遺体は校舎真下の校庭の近くで血まみれになっていたのだけれど、須藤さんの遺体はみつかっていないみたいだそうよ。
でも、警察は須藤さんは死亡と断定してる。』
『同じように、過去にあった話‥知ってる?
何でも、他人と違う難病を患った一人の転校生の話。

その子も、
自分の治らない病気に絶望して死を計ったとか‥』
『この学校、いわくつきどころか何かにたたられてるのかもしれないよ‥不可思議な出来事の原因とかも全然わかっちゃいないし。恐い恐い。明日は我が身だよ。』

『そう、君たちは何もわかっちゃいないよ。』
『…えっ?』
一人の少女が瞬時に背後を振りかえる。だが、人の子一人いる様子はまったく無かった。
『今、誰かが後ろに‥』
『いないよ。何寝呆けてるのよ。さっそくたたられたっていうの?いこいこ!』
女生徒達は歩みを早めた。だがその場には何とも言えぬ瘴気のようなものがふき溜りのように残っていた。
夕方の帰路を急ぐ頃、同じ時刻に美香はsiestaの店に連なる通りを緩い歩幅で歩いていた。
『…南。私はね‥貴方が、摩梨香さんのかわりになってあげられるのだとしたら、私は‥


不意に心が疼く。
一度は片桐までもをこの手にかけようとした。
心の脆弱な部分を見えない力に縛られていたのだろうか?
だが、彼女を取り巻く仲間の存在によって美香は正しい心を取り戻した。
マリヤの浄化の力、南の意志の瞳。
すべては本当の美香に戻る為に。
彼女には、求めるべき贖いが存在していた。
siestaからこぼれるささやかな笑い声。明るい日々の日常。

『‥美香。』
悲しい声が心にこだまする。辛い、痛みを伴った声。『怜奈。』
伊達の過去を調べるにあたってふと目についたもの。東城怜奈の存在。彼女は虚栄の塔に入信してから自らを怜奈と名乗っていた。
怜奈は、あの子だ。それは間違いない。
美香の過去と今を結ぶもの。彼女が握る鍵はきっと美香を新しい呪縛から解放してくれるに違いない。

ここ3日で全く同じ光景、同じ人物の幻のような夢。それは11年前の悲しい悲劇をおり結ぶ一人の少女の回想であった。
『…美香、貴方の両親は?』
『…いないの。私は誰にも必要とされない子だから。』
物心ついた時に両親のぬくもりを知っていた記憶はない。いや、例えあってもそれは組織が植え込んだ偽りの記憶かもしれないのだ。『‥この子を、お願いしますね。』
親とみせかけた女の声。
思い出したくはない。
それから、いつしか厚みがかった教典を毎日の日課として読み始めて
教室のピアノを弾きはじめた。
ピアノが、そこから奏でる優しい旋律だけが彼女の唯一の拠り所になった。
そして、やがて彼女を襲う悲劇の調べ‥

『ガシャン‥』
『お客様?‥大丈夫ですか?』
気付いた時には、美香は昨日と同じ場所のバーで飲みながらうつむくように寝入ってしまっていた。
テーブルに置かれた飲みかけのカクテルが床に落ち、グラスから放出された薄い泡の欠片がみるみる床に染み込んでいく。
まるで生まれては消え行く小さい水滴の泡のように、自分の想いさえもはかないただ一つの欠片のように思えた。