満月の犲狼・2

そこは果てしない場所であった。
移ろい行く時空の果てにある場所で二人の囁く声が聞こえる。
『計画は?』
『伊達を失い、鍵を簒奪し能力者を抹殺する術を失っては…
それほどまでだというのか。月島の秘められた魔力は…』
『我々が侮りすぎていたのか、それとも、計算以上に彼女の力は我々の想定を超えていた。こう解釈されたほうが正しいかと思われます。』
『鍵となる者、秩序の逆転、なんとしても、我が手に‥
その手段、選ぶまじ。』
『深月。お前が都心へ赴けば全ては万事、事無きをもって鍵は我が手中に入るのだぞ‥なぜ躊躇う?』
『“彼女”を支配するにあたり、力を酷使し過ぎました。
故に、学園において鍵とその証拠を隠滅するべく、すでに手は打ってあります。
時間はやがて、我々の味方になってくれるのですから…』

『月島の処置を、どうする?』
深月は子供のような嘲笑いでvanityにつぶやく。
『やがて彼女は自分からこの場所にくることでしょう。
その時に対処すればよいのです。力をふるわぬ翼をもぎ取るように‥』
『見事だ。
その奸計、神にも通じる。下がれ。』
深月は満足したような表情でその場を離れた。
『さて…
そろそろ、大詰めかな…』


セント・ホスピタリアの診察時間が終わり、微かに夜が更ける頃一台のタクシーと共に片桐が担当医の松室に会釈する。
『晋子のつてで…いや、その節は本当にご迷惑をおかけしました。
私自身、自分のことで迷ってる所もあってなんと申していいのかはわからないのですが‥』
『お大事に。伯父様。まだまだ現役なんですからね。特に身体の調子自体は依然として良い兆候をたどっているので問題ないでしょう。それでは。』
松室は軽く笑みを浮かべ片桐の退院を見送った。
タクシーの運転手に行き先を告げる。
『siesta‥あぁ、未里市内まで。』

市内の公道に車を停車させてもらい片桐はsiestaまでの脇道となりうる近道を軽く足を引きずりながら歩く。
確かに身体自体は健康な状態には戻っているが、長い時間一定距離を歩くと軽く立ちくらみが生じた。
『美香…!ここで待っていたのか。肌寒くなってきたというのに。』
siestaの入り口に待っていたのは黒いスーツに身を堅く包んだ美香の姿であった。その表情はどこか感情の一部を欠落したかのようにうつろいていた。
『先生。おかえりなさい。』
美香は従順な声色で片桐に柔らかく呟いた。
『足が浮ついてるな。靴もそんな泥をひっかけてしまって‥どこか外出していたのか?』
『自分のクラスメイトの墓前に‥ううん、正しくは、元クラスメイトだった生徒の女の子‥
昨日、告別式を済ませてきたの。』


『私、もうこれ以上まわりの人達‥ううん、自分が辛い気持ちを味わうのが嫌‥どうすればいいの‥』
『恐い‥自分自身さえ。これも自分を信じきれなかった一人の情けない女への罰なのかしら‥』
片桐は神妙な面持ちで美香を凝視する。
『美香…
自分の存在意義がたとえ変わってしまっても、人はそれでも、生きてはいける。失った摩梨香の代わりはいない。だが、今、わしには晋子が、南が、こうして笑える、仲間がいるじゃないか。』
『代わり‥私‥代わりでいいなら、私が‥』
『‥!南っ!』
一瞬、南の両瞳が美香の視界に映ったような気がした。

微かに肌に突き刺さる静粛な空気が微かな音を伴って夜の静寂に吹きこぼれる。
片桐の前にそこにいた美香は、教師としてではなく、一人のありのままの女性として、片桐に父性に似た暖かい愛情を得ようと視線をその瞳に注ぐ。
『淋しさを、埋め合わせるだけの優しさ‥だけど、今の私には何よりも、何よりも…
ごめんなさい。先生。』

片桐も途中からは口を閉じ、ただ顔をうつむいたままの美香を見守るように眺めるしかなかった。
『娘として‥か、』
だが、片桐が帰路に着く寸前の眺めた美香の瞳はどこか少女にも似た精彩であった。
翌日、siestaは片桐の退院に相まって再び開業した。