聖なる誘惑と彼女の疵

夜も更け、周りの空気が冷め静かに夜の帳が空を包み込む頃、
青華祭舞踏会もやがて後半の幕にさしかかっていた。
周囲の生徒達の歓声は役者、泰星の動向に収束されるものと思われていた。
しかし、当の泰星はややもしてから舞踏会舞台の表から席を外しており、控え室で談笑していた。
『退屈だな。いや、もっと言うならば倦怠だ。
やはり一私学の学園祭なんぞその遇し、余興はもってしかるべしだとは踏んでいたが、
つくづく俺の興味関心を引くには至らないか。』
『それで‥こんなところに呼び出してどうしたんですか?』
泰星にそういう言い方で尋ねること自体野暮といったものであったが、早夜は軽くため息をついて瞳をのぞきこませながら泰星をうかがう。
泰星も、早夜の乗り気のなさを察したのか、その場で軽く見えない舌打ちしてそそくさとその場を離れようとしていた。
その時であった。
一瞬、控え室の吹き抜けの扉から伝ってきたピアノの演奏が止まった。まるで何かにその旋律をかき消されるように、場が一瞬冷たい静寂に包まれていた。


一瞬の静寂に無意識に身を駆り出されるように泰星はホールへと向かった。
『な‥!』

小さく、淋しい一つの旋律と共に舞い降りた少女。
彼女は静寂と言う名の舞踏衣(ドレス)をその身に纏い、ただ踊る。
まるで自らの悲しみを奏でる舞に沈めて行くように。美香の奏でる旋律に合わせその身を踊らせる一人の少女の出現に、そのホールの場にいたすべての観衆がただ言葉を失い、何かに取りつかれるように彼女に魅入っていた。

そして、彼女の出現をまるで待ち望んでいたかのような含んだ笑いを込めて上から刮目する一人の男。
『彼女なのか‥
もしや、鍵となる存在‥
俺の予感が告げている。
何かを‥』
『‥彼女に、接触しろ。』
まるで鶴の一声のような機械的な口調が頭脳に直接インプットされるように響いた。

演奏が一段落つき、美奈は軽く額に染みた汗を片手で拭いながら、美香の元に向かった。
『先生…
おくれて、ごめんなさい。ちょっとひとりで考え事をしてたんです。』

美奈は薄手の白生地にセルリアンブルーの迷彩を含んだワンピースを羽織っていた。
その表情はどこか大人びた女性としての意識を強めており、先程の踊りと相まって観衆の視線を釘づけにするには十分すぎるものであった。
『‥ささいというか、ん、まぁ、ささいなことです。
やだ。何いってるんだろ‥私。』
『ありがとう。美奈。
さっきの曲は昔私が賞を取った時の曲なのよ。
パートを思い出すのに苦労したわ。』
『そうなんですか‥』


『イズミ、みてるかな…』『えぇ、見てるわ。きっと、見てる…』
その静寂もひとしきり止んだ後に、南と唯が美香の元に駆け付ける。
そして、ふわりとした雲のようななめらかな表情を携えて美奈が振り返る。
『あ‥』
一瞬、南が力なくつぶやいた。
美奈は、視線を軽く俯せたままどこかバツが悪そうな表情を向けた。だが、一瞬の間が開いた後南に再び笑みを浮かべたたまま語り掛ける。




『‥はじめまして。
あの、この前は、ごめんなさい…
イズミのこと。
私‥』
南は何を喋ればいいのか言葉が思いつかなかった。その雰囲気を察知してか唯が南をたしなめるように美奈に接する。
『はじめまして!
あなたが、井上さんだよね?
先生から、話は聞いてるんだ‥
イズミさんのことは、悔やんでも、悔やみきれないかもしれないけど‥
でも、いつまでも落ち込んでばかりはいられないからね‥だから、今日はここにきてくれてありがとう。』
『‥うん。』
美奈はそっと微笑んだ。
そんな美奈と南達のやりとりを余所に、彼女達の元に一人歩み寄る男の姿があった。
『はじめまして。
いや、先程の舞踏。恐れ入ったよ。
あれほどまでに他者を魅了できる舞踏は自分の住む役者の世界でも果たして数えて何人いることやら。』
『‥いえ。私など、そんな、めっそうもないです。』
『どうだろう。君の先生のもと、一曲この自分と踊ってはくれないかい?せっかくの場だ。それなりに楽しもうじゃないか。』
泰星のその何気ない一言はその場の観衆をたちまち興奮の坩堝に落とし込んだ。『‥美奈。』
一瞬、美香が不安の表情を視線に込める。だが、美奈は一瞬の躊躇の後、泰星の申し出を受けた。
『私で、いいのなら‥それじゃ‥』


泰星と美奈の二人を包む虚構の世界はまるで異質なる別世界であった。

『その瞳‥
君は何かを隠そうとしているのかい?』
泰星の問いに美奈はただ軽く微笑みを返す。だがそれは一つの悲しい仮面のように泰星は思っていた。
『失恋‥?いや、そうではないのか…』
『そんなに聞かないでください。恥ずかしいから‥』
中身は確かに無垢で偽りのない一人の少女であった。だが、その外から映る官能的な軽く頬を染めた微笑みた視線はまるで眼前のその男を愛しているかのような魔性にも似た瞳であった。『なんだ‥これは‥まるで、その者を愛していますといわんばかりの吸い込まれる瞳‥まるで一輪の咲くアネモネのようだ…!
役者でも、女優でも演じきれないこの瞳は‥なんだ‥』
泰星が手をつなごうとすると、不意にその手を美奈は離そうとする。
アネモネ花言葉を、ご存じなのですか‥』
心が、読まれている‥?否、それは到底ありえない事であった。
『何をしている?』
『力を解放しろ‥彼女に接触するのだ…』
ううおぉぉぉっ!

突然の獣のような叫び。
泰星の額から大粒の汗が流れる。
『だめだ‥俺にはできない‥鍵となる少女の魂を食って、我がものにするなんてことは‥うわあああああ!』
『阿呆が。』

一瞬の静寂が講堂のライトを漆黒の暗闇に変える。

『きゃあああっ!』
ライトの点灯と共にうつったのは、返り血を浴びてそのワンピースを深紅に染めた美奈と、その横で凍った石像のように倒れ付した泰星の姿であった。
『‥能力者が、気配‥血‥獣‥そんな…
みんな‥逃げてっっ!!』
『聖堂自体に、‥呪殺がかけられている‥?』
『死ネ…』
獣のような声にならない声が講堂を炸裂させた。それはもはや真空の凶刃と呼ぶべき代物であった。
『美奈っ!』
南が、幕間の美奈に叫ぶ。美奈は泰星の手をそっと握り締めて力を込める。



『私に、力を…』
聖堂全体から脈動するような振動が聞こえる中、美奈の解放された力が泰星の虫の息の身体に力を再びより戻して行った。