母のナミダ・1

不思議な感覚だった。
口が熱い。
まるで焼けただれるように口が熱い。
まるで鉄の粉を飲み込んだかのようにざらざらした感触がある。
無意識に軽く痺れかけた片方の手で口を拭おうとする。
放っておいたらまた意識が飛んでしまいそうだ。
いったいどのくらいこうやって横たわっていたのだろう。
『痛ッ…』
口をひどく切っている。額のあたりからも染みるような痛撃が走ってくる。
自分が満身創痍であることを知るには十分であった。
『母さん…
私は…』

もうイズミはそれ以上深く考えるのをやめた。
あれほどに昂ぶっていた父への憎しみもまるで何かにかき消されたかのように平穏とした心へと回帰していた。
もしかしたら、もう自分は心のどこかで伸のことを許し始めているのかもしれない。
すべてが一時の悪意に心を奪われただけの稚戯だと思えば楽ですらあった。
それは、自分も伸も同じだったとしても…
『…まとめてこの世に別れを告げさせてやれ。』
…あの声。
自分の脳裏に思念体のように張りついてきたあの声。間違いはなかった。
『あの男が…母さんを…母さん…』



もうどれくらい歩いただろうか。
夕日が沈みかける頃、イズミはある場所へと視点を定めて彷徨していた。
自分の部屋。
もう一度帰る場所。それなのになぜかもうそこは自分の場所ではないかのような錯覚さえ感じた。
『…イズミさん?』
『…イズミさんなの?』
自分の部屋の眼前に足を運んだその時、一人の少女の声が微かに耳に伝わる。

『…!』
視線があわせられなかった。また、また奴らの手先が自分の元に現われたかのような怯えと不安。イズミはその視線の先を見据えず反対方向に逃げようとする。『…待って!』
『痛…っ!』

無理もない。
あれから途方ない距離を歩いているイズミにとってこれ以上の身体の酷使は自殺行為にも等しかった。
『立っていられるのだけでもやっとなのに、無茶するから…
だいじょうぶ。私はあなたの敵とかそんなんじゃないよ。安心して。ある人から貴方のことを探すように言われたから。』
薄いセピア色のブレザーに白いスカート、
肩に届くか届かないかのショートヘアの髪に優しさと淋しさがどこか入り交じった瞳で、その少女はイズミを見つめていた。
『ある、人…?』
『そう。だから、詳しいお話はゆっくり聞くね。いまはまずはその傷を…』

イズミは軽く拒絶するような表情を見せる。またあの薬の匂いに混ざった部屋に戻るのが苦痛ですらあった。
『だいじょうぶ。私にまかせて。イズミさん。』
その言葉に不思議と安堵にもにた感覚をイズミは感じた。