氷の少女を名乗る・7

月島南編・第七話

『北織君…か?』
ご無沙汰しています。と美香が軽く会釈すると片桐もそれに答えるように頷いた。
『何か、元気がなさそうですね。
私の気のせいだったらいいんですけど。』
いつの日だったろうか。摩梨香が存命だった頃、片桐は当時別の喫茶店を営んでいた頃に一人の少女にピアノを教えていた時期があった。
あくまで生計を補完するものではなく、それは片桐のまったくの個人的な趣味に近い営みで勤しんでいたことだったのだが。
当時の美香は小さい年ながらも音楽の才能に秀でていて、片桐もまた誠心になってピアノの技術を教えていた経緯がある。
そして、その後風の噂でいつしか美香はピアノを弾くのを止めたという話が流れた。
ちょうど摩梨香の死と前後する頃である。
美香はその後独力で音楽とは関係の希薄な教育学の大学に通い教職過程を得たのちに、母校である青華学院の教師となるに至った。

片桐は無理っぽく笑顔を作ってみせる。
『この年まで生きているとな、自分でも気付かないうちにさまざまな因果に縛られているということに気付くものさ。それを宿命として割り切り、己の人生の幹にできるかで…
おそらく、ほとんどの事は自然に成ってゆくのだろう。
…ただ、
自らの大切な人間を失う悲しさを拭うことだけは、どうしても…


忘れることなどできない。
片桐の言葉ひとつひとつには論理をも超越したパトスがこもっているかのようであった。
『千切れるほどに、深く思う。
いっそ、記憶さえもなくなってしまえばと思うと…』
『…片桐さん。悪酔いしすぎです。』
『もう帰りましょう。』

美香がそっと片桐の肩を沿うようにかかえようとしたその時、
片桐の耳にまたあの時とまったく同じ摩梨香の囁きが悲痛な小さい声となって届いた。
『パパ…パパ…!』
『摩梨香…
摩梨香なのか…!?』

『なに…この不協和音…
私のまわりには聞こえてない…
先生と私だけを、狙ってるの…?』
だが、美香にはそれが摩梨香の声だと聞こえようはずはなかった。
まるで異界の死霊のような、魂をまるごと根こそぎとられそうな声がその場に鋭く立ちこめていた。
『摩梨香の…
摩梨香の声が…』
『幻よ…全部…うぐっ…きっ…ああぁっ…』


『早く…ここを…』
美香が片桐の肩を強引につかんでその場を立ち去ろうとする。
あわてて事の異変をかぎとり駆け付けた店員のことなどもはや蚊帳の外の出来事であった。
『…逃げられないから。
絶対、逃げられないから。』




『逃げられないから。
つかまえてあげるから。
殺してあげるから。』



無我夢中で走りつづけた先に気付いた場所は、あの港の前であった。
そして、気配…いや、もはやそこに一つの背景として同化している一人のショートボブの髪をなびかせた小さい少女の幻影があった。スッ…と、一瞬風がゆれる。
沈黙と共に片桐が歩み寄る。
『マリカっっっ!!』
片桐の瞳は半ば狂気を帯びているかのように充血していた。
何かにすがるような声で片桐は叫んだ。
『ちがう…ちがうのよ…
摩梨香さんは…もう…もう…』
何度も狂った旋律を脳に差し込まれて自分の感覚が狂っているとは思えない。
今ここにいる人間は、存在するはずのない存在…だから…
『裏切りもの。』
『えっ…?』
その瞬間、摩梨香の幻影がふりかざした右手が美香を見えない力で大きく吹き飛ばした。
『…あの邪魔者のせいで。だから、まよったのね。
おとなしくしてれば…でしゃばらなければ死ぬことはないというのに。』
コンクリートに倒れ付した美香を横目に片桐にそっと摩梨香が近づいた。

『…パパ。』
『摩梨香…なんてことを…』
『パパは、私よりその女のほうがかわいいのね。
私だけを振り向いてほしいのに、
なんで…なんで…』
『北織君のことを…なぜだ、摩梨香、なぜそんなことを…』
『なぜ…?
なぜなら、私は摩梨香じゃないんだもの。』
…凍りついた沈黙。
沈黙の終幕とともに、摩梨香が片桐を呼ぶ声は死を招き寄せる不協和音の音へと変貌した。
『声色…音を操る能力者…あなたは…』
摩梨香の左足に光を帯びた細鎖がからみつく。
立ち上がった美香が鋭い眼光で摩梨香をにらみつける。
『そう…そうだったわね。貴方は、片桐の昔を知る人物。だから、摩梨香のことを…
だから愚かなのよ。
イズミを物色する余裕があるというなら事に気付きはじめたあんたの息の根を止めることが先だったというのに。
まぁあの彼を助けるかわりに貴方は私に、いえ、私たちに忠誠を誓ったのだから。
逃げられないのよ…
絶対に、逃げられないのよ…私を裏切った人間はみんな地獄に送ってやるから!』





『うっ…!』
摩梨香が光の細鎖を難なく弾き帰すと、またあの“見えない力”で美香を縛り付ける。
『人間の力を超えて…この力は…ぐうっ!』


『北織君!』
『先生…逃げてっ!』
『はい。死んで。』


摩梨香が邪気を込めた念力を放つ。
まがまがしい死の旋律に支配された衝撃波。
しかし、美香の眼前で“それ”はかき消された。
その場を支配していた冷たい風が、見えない力を完全に無意味な空気の塵へと変える。
そして、摩梨香の視線には踊る一人の少女の姿が見えた。
『氷の…少女…?
月島…!? 余計な真似を…!』
だが、摩梨香はその表情をすぐに苦悶の表情へと変えた。
ここで片桐と北織を始末しておくべきだったものを。だが、能力者が二人となってしまった今、音の行使に精神力を使い果たしかけている今の自分では分が悪い。
ここは素直におとなしくしておくべきなのだろう。
最後まで冷静でいるべきはこの私だ。だから…
守護天使…寄り添う者…だけど、
逃がさない…逃がさない…逃がさないから……』

数秒の間とともに、摩梨香の幻影は消失した。
そして、不協和音も。
『おじさん…』
南が、片桐のそばに駆け寄る。
だが、南の声も聞こえないのか、届かないのか片桐はただ冷たいコンクリートの下にうずくまってまるで子供のようにむせび泣いていた。
『…摩梨香…なぜだ…
なぜ……』




かつての教え子の傷ついた姿と、背後に寄り添う娘代わりの少女のことももはや顔をあげて直視することすらかなわなかった。
月島南編 END