血塗られた糸を解く・2

『…イズミ』
ひとりきりの教室に、一人の少女の小さい声が響く。『…藍里』
いつにも増してイズミの顔には生気が感じられない。もともと周囲に笑顔や愛敬を振る舞う女の子ではないということは、かれこれ古い付き合いになる深見藍里にとっては百も承知なのだが。
それでもイズミの不調というのはわかりやすい。以て然るべしということなのだが。
『…うん。
まぁ、そんなに藍里が気にかくまう程じゃないから。‥ん、割りと普通、かも。』
『それならいいけど…』
その夕方、
藍里の方から呼び掛けてイズミをお茶に連れてでかけた。

『忘れているのか。
お前は、選ばれた人間なのだ。
選ばれた人間には、秩序を、
この世界を作り替える権利さえあるのだ。
なぜ、気付かないのだ!』『ぐぅっ…うぁ…!』


突然、イズミが我を忘れ狂ったように叫びだす。一辺の冷静さも欠いた野獣のような叫び。
『シュッ…!』
それは、一瞬だった。
藍里には寸前、何が起きたかが理解できなかった。
『…』

『今の…糸…?』
『恐いの…自分が、自分でいられなくなるのかと思うと、恐い…
恐いよ…』
『まったく、どこが割りと普通なのよ…』
藍里は、軽くため息をついた。そして、スッとイズミの前に歩み出てイズミの額に右手をかざす。
その瞬間だった。
まるで暖かいぬくもりのような感触が光るように、イズミの中に駆け巡り脈動していく。
その光景は、さながらも能力、そのものに思えた。
『藍里、…
あなたも、なの?』
藍里は、そっとうなづく。
やはり、この未里と言う街に常識ではとらわれない力が働きはじめていることは明白になりつつあった。
身近な人間が持ち始める能力、
それはまるで何かを、告げる予兆のように、一抹の不安を与えようとしていた。
『私のこの力は、ヒーリングとは違うみたい。
ヒトの精神力に直接薬のように強く働きかけるの。だから…

『崩れかけた精神力と脈動をリカバリー(再生能力)するという能力ね。』

『そのことについて、南に話したんだ。そしたら、やっぱり能力は私たちのまわり、それも、南や、唯や、私たちのまわりだけに現われてるの…』
それでもイズミには、藍里の心には迷いが無いように見えた。
否、迷いがない訳では決してなかったのだろう。
彼女のそばにいる南が、唯が、藍里の支えになってくれたに違いない。
でも、私は…


慟哭に心が打ち震える。
『藍里、もう大丈夫だから。』
イズミがそっと呟く。今誰にも明かすことのできない心の悲しみこそが、イズミの病巣だということはもはや明白なのだが、


また、あの自宅に戻れば無限に時間さえ止まった牢獄のような場所で同じ傷を舐めあったふりをした者同士、ただ、生きるしかないというのに。
『無理だよ…私には、できない…
どんなに、憎くても…
私には…』

涙は不思議と出なかった。だが、その心は幾重もの悲しみで既に濡れきっていた。

その日は、どうやって帰路に着いたか、イズミはよく覚えていない。
自宅の合鍵を開ける。
イズミは二人分の食事を買い込んでいたのだが、
結局、伸はその日は帰ってくることはなかった。



それから数日後、
イズミは帰ってきた伸の姿を目のあたりにした。
『どこにいってたのよ。一体…』
『悠梨…あいつは、あそこにいたんだよ…なぁ…悠梨…』
伸の身体はひどく衰弱していた。何やらうわごとのように話す言葉がイズミの過去に突き刺さるように入っていった。
『…話して。
今、私に話すことができるなら。』
イズミの表情に鋭さが増した。だが、それはまるで全てを許そうとする心の変化のようにも見えた。
『悠梨は…』

伸は口を静かに開き、イズミに話した。
イズミの母親、山室悠梨。彼女は11年前から虚栄の塔の信者であった。
だが、虚栄の塔に入ってしばらくして悠梨の状態が急変した。しきりに身体の不調を訴え夫の呼び掛けにもこたえなくなっていったらしい。
そしてそれから数日後、山室夫妻は謎の事故死を遂げる。
だが伸には不可解な点があった。
悠梨の死は、自殺と告げられた。だが、物心ついていなかったイズミはともかく伸には葬儀の際の記憶がなかった。
そもそも、この自分が両夫婦の確実な死を確認できたわけですらなかったのだ。
結果、形的に姪となるイズミだけが自分の手元に残った。
それでも、イズミに見た悠梨の影だけが未だ自らの記憶から強く離れないでいた。
『イズミ。
おまえの母さんはやはり、事故なんかじゃなかった…
あいつだ
あいつが、おまえの本当の母親を…
思い出したんだ…

『悠梨…
これは、イズミに対する罰なのかもな…イズミ…やはり、俺は、おまえに殺されておくべきだったんだよ…イズミィ…うぁぁぁぁ…』
ただ自分の目の前にいる伸が小さくちっぽけな存在に見えた。
そこまで、彼は母のことを、だから…その想いは正しいほうにむけるべきだったというのに。
『お母さんなら…許すよ。だから。』
…to be continued.