心、掠める

生徒のいない夕方の教室、一人、北織美香は器楽室でピアノを弾き終えていた。もうすっかり日は暮れはじめていた。しばし時間を忘れて奏でていたことに気付かなかった。だが、一人の生徒の声で美香は閉じこもった意識から身を翻した。
『…先生。』
『まだ残ってたの?…ちょっと、関心しないわね。

昨今まわりではよくない事件も起きているのに、夜中に外を出歩くのは自粛することよ。何かがあってからでは遅いわ。
そう、何かがあってからじゃ…』
その生徒の名前は、市川念次。高校3年生で卒業を控えている身の上、本来ならばこのようなところで油を売っているのはいただけない。
しかし、念次は美香の推薦により都内でも一流と呼ばれる私立大学の推薦入学が決定していた。
『…つれないんだね。
先生。そんなうかない顔してたら、美人が台無しだよ』
『そしてお世辞はもっとデリケートに言うものよ。』
まさしく取りつくしまがなかった。美香はピアノをたたみ、無表情のまま念次に視線をやることなく器楽室を出ようとしていた。
『…さぁ、もう帰りなさい。』
美香が歩幅を早める。すると念次が振り向きざまに美香にむかって叫ぶように言葉を放つ。
『…先生!』
念次の目に偽りはなかった。そう、何かに追い詰められてるような、淋しく、怯えた両瞳。決してこの年の多感な男子が演技でできるものではない。
少しの事の異変を察しつつ、美香は念次に話し掛ける。
『職員室にきなさい。
コーヒーぐらいはだしてあげるわ。』

背中より少し短いぐらいの黒髪をかきあげながら、美香は椅子に座って念次の話に耳を傾けた。
『…歌?』
その意味がよく理解できずに、美香は戸惑う。
『…自分の身のまわりだけかもしれないけど、最近おかしいんだ。
耳がおかしくなっているんじゃないかって。歌を聞いていると、ものすごいわからない苦しみ、嘔吐に襲われるんだ。』
『……』
『しかも、その歌を聞くまいと耳を塞いでもまだ聞こえてくる。不思議と、声色は綺麗なのに苦しくて、しかたがなくて…』
歌…と聞いて思い当たる節は見当たらない。しかし、よくない予感が美香を襲う、たとえば、それは…

『…歌、か。』
『しかも、俺だけじゃなくて、それは…』
事は深刻らしい。
ひとまず、異音がして体に何らかの異変がしたら美香は自分のところにすぐ伝えるようにと念次に話した。
『先生のピアノを聞いている時なら、そんなわずらわしさから逃れられるのに…』
念次がつぶやく。美香は、読み取れぬほどの小さな笑みをうかべ、そしてすぐ再び深刻な表情で念次を見つめた。

『…臆せずに、私に話してくれてありがとう。
大丈夫だから。
‥恐れないで。』
美香の一言が染み渡るようなぬくもりのように感じていた。念次は、この日から、美香が傍にいると自分の苦しさが解けていくのを知った。
‥to be continued.