もうここにはいない誰かと私

『…美奈。』
美奈は、表情一つ変えずに眠っていた。
槙絵からのメールがきて、自分の無事を簡潔に伝え、そっと携帯をテーブルに置く。
これで、全てが終わった。そう解釈してもいいのだろうか。神永は倒れ、それを裏で操っていた真弓も美奈の手によって滅びた。
だとすると、少なくとも美奈がこの地にいる必然性はもうない。新たな能力者を探して、また次の街を徘徊して…
もしくは、このまま自分と一緒に。
『…最低だ。』
不意に罪悪感のような負の感情が高まりはじめる。
美奈が、自分を助けてくれたのはあくまで、能力者としてだということ。
そうでなければ… そもそも、自分と接触したのも、神永からたどる能力者を仕留めなければならなかったわけであって…
『それでも、美奈。辛いよ。
人はどうしてこんなに、誰かの優しさをもとめないといけないようにできているのかな。』
こんな自分が、たとえば誰かに優しさを与えてあげることはできないのだろうか。
心の靄は晴れない。
自分にとっての、喜び。幸せというものがどういうものかもはや正しく渓は認識できずにいた。
『…美奈。』
『…渓』
ありがとう、と、美奈はそっと自分にささやいてくれたような気がした。
『…起きたの?』
『…うん。』
『何か、大切なものを思い出そうとしていたの。
私と…私の、まわりのひと。そして、私の、使命。』『…美奈。』
『明日も、また雨なんだって。』
美奈は、かすかに微笑んだ。
『…朝だね。
ちょっと散歩だけしていいかな?』
そういって、美奈は髪を軽く整えはじめた。もう美奈の体調は平気なのだろうか。不安は尽きない、でも、今は美奈にこうしてそばにいてあげられるだけで、美奈が楽になってくれるなら…
それでも。




…ふとした想い。
眠りながら悪夢をみているのか、目覚めていた悪夢に似た現実をみていたのか。心なんて、なかったはずなのに。とうの昔に捨て去ったはずなのに。
『うらやましかった。君のことが。』
渓と、槙絵のことをそっと街角で見ていた時、
自分は、もうこちら側の人間だということに気付いたあの日。
『…はぁ。はぁ。力が、私を、狂わせる。私でない力が、私を、…
心は、だから、せめて…』

『心なんて、いらなかったんじゃなかったの?』
不意に囁く幻。
『だったら、私は人間じゃないわよ!!』
『認めちゃった。
あーあ‥』
自分の心にいまだ取り込まれていないのなら、私は…まだ。
だから、私は、告げなくてはいけない。
だから、私は…
小雨が降る都心の界隈。美奈と渓は、他愛もない会話を繰り返しながら、朝の電車に乗る。
…美奈の歩幅は、どこか早足だった。
人込みに慣れていないのだろうか。
『…ごめん、 …はぐれちゃいそうだから。』
美奈が、そっと渓の右手を優しい力で握る。
それは、渓がいままで味わったことのない、初めての人のぬくもりのように思えてならなかった。
『…新宿、か。』
あと1駅で降りないと。
雨の日の満員電車。
人込みに加えて傘と傘がぶつかりあってどうにもならない。
『…美奈、次の駅でおり…うわっ!』
急に、アナウンスも何もなく渓はホームの外に投げ出された。
人が降りようともしてないのに、この人ゴミの焦燥ぶりはどうだ。
いくら自分は慣れてるとはいえ、美奈が人ゴミを避けたくなるのも無理はない。しかし、そこで渓の、正しくは美奈から譲り受けた傘が扉の開閉のはずみで放り出された。
『…傘が!』
無地の傘が踏まれそうになる。
とっさに渓は人込みに逆流するように押し戻り、傘を手にとる。
…しかし、電車のドアが閉まった瞬間、渓は信じられない光景を目にする。
『…美奈ッ!』
そんな、バカな。
『美奈っ!なんで、おりて、あ、ちょ…お、おい、待ってくれ… おぃっ!
止めろ!止めてくれ…  止めろっていってんだよっ!!!! 止めろっっっ!!』

美奈の表情は見えなかった。
荒んだ風とホームの騒音に包まれて
彼女が何を最後に伝えようとしたのか
もはや知る術も無かった。
ただ、我を忘れ狂ったように叫びながら、渓は最後の目蓋に美奈の後ろ姿を焼き付けていた。







『…お客さん、終点ですよ。お客さん。ねぇ、ちょっと。』
『だめだよ、ありゃ。
あんな骨組みがばらばらになった傘を撫でながら、何やってんだか。
話し掛けてもうわの空でよ』
『傘…濡れてる』
それが彼女の涙だときづいてくれたら、
彼は…


うつろい行く意識の中、渓の瞳に映ったのは駐在員に連れられ渋々とホーム内に入り込もうとする警官の姿だった。